・ほぼ 完 全 捏 造 。

































 私には、両親がいなかった。
 母は私を産んですぐに亡くなり、それから間もなく父はミッションの最中に行方不明に。
 それでも兄がいたし、後見人となった親戚の人たちはとても良くしてくれたと思う。
 だからまったく気にならなかった……といえば嘘になるけれど、両親のいない境遇を、あまり気にすることはなかった。

 ――転機となったのは、兄の起こした総裁暗殺未遂事件。

 当然、私は兄の無実を疑ってはいなかったし、きっとなにかの間違いだろうと確信していた。
 けれど、周りの人たちは必ずしもそうじゃなくて……。
 最初は仲の良かった友だちの中にも、露骨に私と距離をとろうとする子が出てきた。
 次は謂れのない誹謗中傷が、どこで知ったのか私のメールボックスへ大量に送られてくるように。
 当時暮らしていた親戚の家にも同じく嫌がらせ電話が鳴り響き、一時は着信拒否設定が追いつかないほどだった。
 それでも私に対して、決して兄の悪口を言ったりはしなかったけれど、疎ましそうな様子は隠しきれてなかった。
 のちに私がガーディアンズの庇護下に入った時の、ホッとした様子が今でも忘れられない。

 ガーディアンズの庇護下に入って、ようやく世間の喧騒から逃れられて。
 与えられた狭い個室の中、一人でベッドに横たわると、強烈な孤独感に襲われた。
 兄は行方不明。家族同然だと思っていた親戚の人らとは、本当の意味で家族にはなれていなかった。
 友人たちも私から距離を置いてしまい、私を庇護しているガーディアンズの人だって、必ずしも兄の無実を信じてるわけじゃない。
 ヒューガさんやマヤさん、兄と親しい人たちは兄を無実だと言っていたし、確証もあると励ましてもくれた。
 だけど、彼らは彼らで多忙だから、私と顔を合わせることは滅多にない。
 私の周りには、誰もいない。頼れる人も、家族も。ひたすらに孤独で、空虚。
 ただ縋れるのは、ヒューガさん達の言った「兄は無実」「確証がある」と言う、その言葉だけ。

 せめて音が欲しい。無音だから余計なことを考えてしまうのだ。
 そうしてテレビをつけると、世の中はテロだイルミナスだと騒いでいる。
 このまま兄のことを世間は忘れ去ってしまうのだろうか。犯罪者として、誰の心にも刻まれたまま?
 世界は廻っている。自分の知らないところでグルグルと。そして私を否応無しに振り回していく。
 ヒューガさん達は兄を無実だと言った。確証もあると言った。なのに、どうして公表しない?
 実は嘘? まさか、そんなハズはない。そんな嘘をつく理由がない。
 ドクンドクンと心臓の鼓動が早くなっていく。私は、何も知らない。何も知らないところで全てが動いてる。
 足場がなくなったような錯覚。動揺。焦燥。知りたい。私は知りたい。知れなくとも、せめて近いところにいたい。

 孤独と焦燥。
 この時抱いたそれらの感情は、私をガーディアンズへ入隊させる強い動機となった。
 もう日常生活へは戻れない。友人や親戚の人々と関係を元に戻すには、溝が大きくなりすぎてる。
 かと言ってどこか別の機関に身を寄せるのは問題外だった。私は知りたいのだ。世の中がどうなっているのか。
 何も知らないところで全てが動くのはもう嫌だった。優しい言葉をかけてくれた人を疑うようなことはもう嫌だった。

 それでも崩壊状態のガーディアンズで新米の私に居場所なんかなくて。やっぱりひとりきりで投げ出されて。
 孤独と焦燥でいっぱいで、気がついた時には体が動いて。深刻な顔をしたマヤさんへ無茶を言った。
 当然渋るマヤさん。ロクに研修すら積んでない素人を、どうしてガーディアンズの命運がかかった仕事に同行させるだろうか。
 けれど当時の私はそれを理解できず。ただただ衝動のままにマヤさんへ縋ることしか出来なかった。
 その時だった。マヤさんの後ろにいたあの人が口を開いたのは。

「――いいんじゃないですか。連れて行っても」

 それが、私とあの人――ソウジさんとの出会いだった。






 海と約束






 ――かさかさと、笹の葉のこすれる音が聞こえてくる。

「……はぁ」

 今日に入って何度目か分からないため息。
 目の前のデスクに広げられた書類を整理しなければならないのに、ついあの時の醜態を思い出してしまう。
 憂鬱だった。あの人を無駄に煩わせるようなことをしてしまった。

「……はぁ」

 再び、ため息。
 ソウジさんと、どんな顔して会えばいいんだろう。

「ねぇ、ルミア」
「っ!」

 向かい合わせのデスクから声をかけられ、思わずビクリとする。

「……マヤさん」

 悩むばかりに、すっかりマヤさんの存在を忘れてた。

「今朝からため息ばかりついてるけど……」
「ごめんなさい。気に障りましたか?」

 謝る私。けれどマヤさんは首を横に振る。

「それは別にいいんだけど……。何か悩みでもあるの?」

 「あれば話してほしいかな」と私の顔を見つめるマヤさん。
 思わず言葉に詰まる。
 純粋に私を気遣ってくれている、その目を見ていられなくて。つい、視線を膝に落としてしまう。

 ――言えなかった。
 要は駄々をこねてソウジさんを困らせた挙句、そのことを後悔してウジウジしているだけなのだ。
 あまりにもくだらなすぎて、口にするのも情けない。

「あの、その……大丈夫です」

 だから私の口から出せたのは、そんな曖昧な言葉だけだった。
 申し訳なさで胸がいっぱいになる。せっかくマヤさんは親身に接してくれたというのに。

「んー、そうなの。それじゃあ仕方ないわね」

 あっけらかんと返してくれたマヤさんに、少しだけ救われた気持ちになってホッとする。

「ところでルミア」
「はい」
「最近、ソウジ君と会ってる?」
「……っ」

 ――わずかに気を緩めた刹那の不意打ちだった。
 思わず固まる私を、「やっぱり」と言った面持ちで見つめるマヤさん。
 なんだか口角が微かに釣り上がって見えるのは気のせい……だよね?

「そ、そそそそそそソウジさんは関係ないですよ!?」
「なにが関係ないのかしら?」
「……うっ」

 これじゃあ「私のため息とソウジさんが関係してる」と言ってるようなものじゃない……!
 ばか! 私のばか! 思わず頭を抱えてしまう。

「暇さえあれば……。いえ、暇がなくても理由をつけてはソウジ君のところに行ってたのが、ここ最近ご無沙汰な時点でおかしいとは思ってたけど……」
「あ、あの、確かにソウジさんも関係してますけど、本当に個人的な問題ですから……」

 ぶつぶつと呟くマヤさんに、私は恐る恐る声をかける。
 だけどマヤさんは止まらない。

「ルミア!」
「は、はい!」
「これ、使いなさい」

 渡されたのは一枚のチケット。
 それを両手で受け取ると、書かれた文字を訝しげに読み上げる。

「プライベートビーチご招待券……?」
「仕事の関係で貰ったんだけどね。これにソウジ君を誘いなさい」
「な……」
「一枚で四人まで入れるから……そうね、二人きりがどうしても無理なら、他にお友達でも誘ったらどうかしら」
「ちょ、ちょっと待ってください、あの」
「いーえ、待たないわよ。それとも何? このままズルズルと今の状態が続いてもいいの?」
「それは……、嫌ですけど……」
「なら、これを機会に二人で話し合いなさい。ね?」
「……はい」

 不承不承、頷く私。
 結局、押し切られてしまった。

 けれど、内心これを関係修復のチャンスだと期待してる私もいたりして。
 久しぶりに気持ちが上向いてるのが、自分でも分かった。



 ***



 目の前にはソウジさんの部屋の扉。
 とりあえず仕事を切り上げてここまで来たはいいけれど、そこまでだった。

 ――顔を合わせるのが、気まずい。

 そんな感情が先走り、体が動かなくなってしまったのだ。
 後はドアをノックして、出てきたソウジさんにチケットを見せて誘えばいいだけなのに……。
 ノックしようと腕を上げて、力なく下ろす。そんな行動を繰り返していると、不意に後ろから声がした。

「あれ、ルミア? どうしたの?」
「!」

 思わずビクリとする私。
 振り向くと、そこにはキョトンとした様子のエミリアが立っていた。

「なーんだ、エミリアか……」
「なんだとはご挨拶ね……」

 胸に手を当ててホッとする私を、腰に両手を当ててジト目でこちらを見つめるエミリア。
 久しぶりのやり取りに思わず頬が緩みそうになる。だけど、続く言葉で再び緊張に包まれる。

「それよりルミア、入らないの?」
「え? あぁ、うん、そうね……」

 思わず目が泳ぐ。心臓がドクンドクンと忙しなく動く。
 目の前にはソウジさんの部屋の扉。
 ともすれば自室より気安く開けていたそれが、今の私にはレリクスへ通じる巨大な扉よりも強固に見える。

「……え、エミリア! これ!」
「え? な、なに? チケット?」
「そう、チケット! マヤさんからリゾートコロニーのプライベートビーチのチケットを貰ったの! 4人まで大丈夫だから、私とあなたとソウジさんの3人で行きましょう!」
「べ、別にそれはいいけど……、早くドアを」
「あっ……! 私これから仕事があったんだった! だからごめんなさい! ソウジさんにも伝えておいてもらえないかしら!?
 都合のいい日をあとでメールしてくれれば、それに合わせて調整するから! それじゃあね!」
「ちょっ、ルミア!?」

 全力で駆け出す私。エミリアの声を背に、全力で居住フロアの廊下を駆け抜ける。
 ……何やってんだろう、私。



 ***



 暇つぶしにソウジの部屋に行こうとしたら、扉の前にルミアが立っていた。
 いつものように憎まれ口を叩きあうと、急にテンパって一方的に用事を捲し立て、駈け出していった。

 ――何がなんだか分からない。
 ルミアの奇行には慣れてるつもりだったが、今回ばかりは何がなんなのかさっぱり見えてこない。
 遊びに誘いに来たのは分かるけど、いつもならあたしより先にソウジへ言うだろうし。
 あの様子じゃソウジにはまだ言ってないみたいだし……。仕事があるってのも明らか嘘よね、あれ。
 ソウジと顔を合わせるのが嫌とか? ……まさかね。あのソウジ狂いのルミアに限ってそんなこと。
 そもそも、そんな状態で遊びに自分から誘いにくるとも思えないし……。これはなにか、あったかな。

「あのー、俺の部屋に何か御用で……ってあれ、エミリアじゃないか」
「あっ、ソウジ」

 ルミア突然の奇行に思わず考えこんでると、うしろからソウジに声をかけられた。
 ちょうどいいから訊いてみよう。

「ねぇ、ルミアと何かあったの?」
「――いや、何もないよ」

 いつもどおりの、表情。
 瞳を見つめるけれど、そこには何の色も浮かんでない。

「ふーん、そっか。ならいいんだ。そうそうルミアがね、今度――」

 ソウジが浮かべた、いつもどおりの表情。
 だけどそれは不自然なまでに"いつもどおり"で。逆に何かあると言ってるようなものだ。

「本っ当に分かりやすいんだから……」

 気づかれないように、あたしは小さくため息をついたのだった。



***



 まぶしい空。白い砂浜。透き通るような青い海。
 どこからともなくマジカルなサウンドのシャワーが聴こえてきそうな、そんな爽やかなビーチ。
 完璧に機械管理されたその環境は、見事なまでの常夏リゾートだった。

「うーん。いい感じね!」
「そうだな」

 私の隣には、水着に着替えたソウジさんとエミリア。
 ソウジさんはグリーンを基調としたサーフパンツを履いていて。
 エミリアはピンク色の可愛らしいビキニを着て、右手に浮輪を持っている。

 視線を下げて、自分の水着を見る。……さすがにガーディアンズ指定水着じゃ色気がなさすぎたかしら。
 でも、だからと言ってビキニを着るのはちょっと……恥ずかしい。

「ね、ねえねえソウジ、他に言うことがあるんじゃない?」
「なんだ?」
「ほらほら。うら若い娘二人が、こんな格好してるんだからさ、もっとこう、男として、ね?」
「うん、似合ってるな、水着」
「うーん、まあ、その言葉は嬉しいんだけどね? 素直にね? ね? でもなんかもうちょっとこう……いや、いいや。うん」

 二人のやりとりを聞きながら、チラリとソウジさんに視線を送る。
 視線の先のソウジさんはいつも通り……なのに、ここに来るまで会話をすることはなかった。
 そんなことを考えていると、ソウジさんと視線があった。思わず視線を逸らしてしまう。
 そのままため息をつきたくなる。ふがいない自分に。せっかくマヤさんがチャンスをくれたのに。

「なによルミア。さっきから辛気臭いわね。太陽はこんなにも輝いてるっていうのに。あんたの周囲だけ曇り空じゃない」
「……うるさいわね。いい女っていうのは陰を背負ってるものなのよ。それよりエミリア、右手に持った浮輪はなに? まさか、泳げないとか言うんじゃないわよね?」

 いつもの調子で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
 けれど、このやりとりに救われてる私もいて――

「……」

 ――エミリアの周囲が曇り空になってる。すごい勢いで曇ってる。今すぐにも雨が降り出しそう。

「あなた、まさか」
「エミリア……」

 信じられないものを見た気分だった。ソウジさんも驚いた表情をしている。

「……! そうです泳げないですよーだ! だからなに? 悪い!?」

 私たちの視線にいたたまれなくなったのか、大声を張り上げるエミリア。

「別に悪いとは言わないが」
「プールもシップもテレポーターもない時代の内陸育ちならともかく。この現代に生まれて泳げないヒトって、ちょっとどうかと思うわー」
「むきー!」

 地団駄を踏むエミリア。なんて分かりやすいリアクションかしら。

「ふんだ。いいもん別に……。泳げなくたって死なないもん……」

 そのまま、エミリアは砂浜に膝を抱えて、いじけてしまった。
 悪ノリし過ぎたかな。そう思った時、本当にかすかな声で、ポツリとエミリアが呟いた。

「しかたないじゃん。水泳なんて、今までしたこともなかったんだから……」
「……ッ」

 後悔が、胸に滲む。
 エミリアの過去を知れば、どうして泳げないかなんて簡単に思い当たりそうなものなのに。
 ソウジさんと一緒に驚いた時、一瞬、このまま勢いで関係を修復できるかもなんて思ってしまったのだ。
 からかうにしても、コンプレックスを槍玉にあげるなんて趣味が悪すぎる。

「よし、じゃあ俺が教えるよ」

 その時、ソウジさんが声を上げた。

「……ソウジが?」

 膝を抱えたまま、ソウジを見上げるエミリア。

「あぁ。俺は昔から泳ぎは得意なんだぞ。実はインストラクターの資格も取ってる。ついでにライフセーバーの資格も」
「マジで?」
「マジでだ。ガーディアンズにいた頃にな。……というわけで」

 「任せろ」と胸を叩くソウジさん。

「でも……」

 チラリとこちらを見てくるエミリア。
 ソウジさんも一瞬だけ「あっ」と言う顔を浮かべたのが見えた。

 ……自業自得、かな。

「――私のことは気にしないでいいわよ。さすがにその年で泳げないだなんて、気の毒すぎるもの……」

 私は右手で口元を押さえて、わざとらしく首を左右に振る。

「うぬぬぬ……!」

 悔しがるエミリアを、フフンと鼻で笑い飛ばす。

「ま、悔しかったら泳げるようになることね。……ソウジさん」
「う、うん?」

 そそっとソウジさんの側に近づくと、右手を口元に添えて、囁くように言う。

「この年まで泳げないなんて筋金入りですよ。もし泳げないままでも、ソウジさんの責任じゃないですからね!」
「聞こえてるわよルミア! むー! ソウジ! 行くわよ!」

 プンスカと頭から湯気を上げながら立ち上がると、ソウジさんの左腕を掴んで、ずんずんと大股で歩き出すエミリア。

「あ、あぁ。それじゃあ、ルミア……」
「はい。私はこれでそこら辺をぷかぷか漂ってますね」

 エミリアに引きずられそうになるのを踏みとどまりながら、申し訳なさそうにソウジさんが何かを言おうとするより先に。
 「これ」と、ビーチに転がっている、備え付けの遊具らしい、長方形の青いボードを指さす。

「エミリアに泳ぎ方を叩き込んでやってください!」

 両手をグッと握ると、肘を曲げ、胸元に引いて言う。

「……うん、任せとけ」

 まだ申し訳なさそうだったけれど、笑みを浮かべるソウジさん。
 私もそれに応じるように、ニコリと笑みを浮かべる。

 離れていく二人を、笑顔で見送る。久しぶりのソウジさんとの会話。胸が踊っている自分がいた。
 けれどすぐ、離れていくソウジさんを見て、どこかホッとしている自分にも気がついて――自己嫌悪した。



***



 ぷかぷか。ぷかぷか。海上に漂う私はかもめ……って、それは宇宙だっけ。……どうでもいいか。
 人工の海に浮かぶボード。その上でうつ伏せに寝転がり、組んだ両腕の上に乗せた頭で、そんなことをぼんやり考える。
 完全に機械制御された海面は、穏やかな小波を演出していて心地いい。油断するとそのまま眠ってしまいそう。

(……本当に、穏やか)

 だけど、何も解決していない。
 依然としてソウジさんとは気まずい――単に一方的に――ままだし。

 おかしくなったのは、あのタナバタの日からだ。
 パーティーの喧騒に背を向けて、たった一人で笹の葉に短冊を下げていたら、少しだけ感傷的な気持ちになった。
 周りから誰もいなくなった、ソウジさんがこつ然と姿を消してしまった、あの時の孤独感。しばらく忘れていたその感覚を、ふいに思い出したのだ。
 そしてソウジさんに話しかけられて、織姫と彦星の話をしているうちに、段々とその感覚が募っていって……気がついたら。

 ――ソウジさんは……、もう、どこにもいったりしませんよね?

 我ながらバカげてる。傭兵稼業のソウジさんに、そんなことを言ってどうするの?
 それも、これが何も知らない一般市民であるならともかく、仮にもガーディアンズの一員である、私が。
 ガーディアンズも傭兵も、いつだって自分が死ぬことを覚悟した上でやる仕事だっていうのに。
 自分の仕事を理解していれば、軽々しく答えられる類の質問でないことくらい、分かってるはずなのに。

 「この前はおかしなことを言って、すみませんでした」。
 そう言って今すぐにでもソウジさんに謝って、こんな世迷言はなかったことにしてしまうべきなのだ。

 ――なのに、それが出来ない。

 ……ふと気が付けば、だいぶ沖の方まで流されていた。
 視線をビーチの方に向けると、浅瀬の方でエミリアがソウジさんの指導を受けている姿が見える。教え子と、教官。
 その構図は懐かしくて、同時に微かな嫉妬を感じて、すぐさま首を振り、その感情を振り払う。

「……エミリア、か」

 なんとなく、名前を声に出す。

 ――私にとってのガーディアンズ像は、兄やヒューガさんだった。
 颯爽とミッションをこなし、不可能でさえも可能にする、そんな英雄たちの集まり。
 けれど実際に仕事に触れていく内、その認識がどれだけ過大なものであったか身を持って知った。
 その上で、父や兄と言った近しい人々がどれだけ優秀であったか、どれだけ別格の存在であるかを、改めて思い知らされた。
 何よりそんな人々に目をかけて貰いながらも大した実績を残せない自分が、ひどく情けなく感じた。

 だからこそ必死に努力した。
 人が5つフリーミッションをこなせば私は10。10なら20。誰よりも先へ。誰よりも優秀な結果を残そう。
 そうでなければあの人たちと共にいる資格が無いのだと。
 そして、いつかいなくなった教官が戻ってきた時、"これがあなたの教え子です"と、胸をはって会えるように。
 ただただ前へ。前へ――

 でも、そんなものは一人で空回っているだけだった。
 それを教えてくれたエミリアのことを、私はかけ替えのない友人だと思ってる。
 だからこそ、常に対等でありたい。いつだって正々堂々と戦いたい。たとえ勝っても負けても、たがいに笑い合えるように。
 それがたとえ――ソウジさんを巡って、であっても。

 だけど、やっぱり視界の端に映る光景――浅瀬でソウジさんに両手を引かれるエミリア――に嫉妬してしまう自分がいて、ますます情けない気持ちになっていく。
 元はといえば身から出た錆なのに。

「……はぁ」

 また、ため息。そもそも、今の私にエミリアを嫉妬する資格なんてない。
 やるべきことは分かってる、謝ればいい。だけど出来ない。自己嫌悪。……堂々巡りもいいところだ。

「……もう少し、ビーチの方に戻った方がいいかも」

 少し沖の方に流されすぎた気がする。
 泳いで戻ろうと、頭を乗せていた両腕を海につけると、ふいに、右足にぬるっとした感触がした。

「!?」

 凄まじい勢いで身体が海中に沈んで――引きずり込まれてる!
 とっさにボードを両手で掴んで抵抗しようとしたが、それ以上に引きずり込む力の方が強い。
 ボードは手から離れ、一気に海中へと引きずり込まれていく。

「ごポッ……」

 引きずり込まれた勢いで、口腔と鼻腔に海水が流れ込み、思わず咽てしまった。
 体内の空気をすべて吐き出したっ……! 焦る身体はまるで呼吸の仕方を忘れたかのように海水を吸い込んでは咽る。
 やがて完全に酸素の途絶えた脳は、急速に意識をシャットダウンさせていく。遠ざかっていく水面。ボードの影。
 段々と黒く塗りつぶされていく視界。

(ソウジ……さん……)



***



 総合調査部執務室。マヤは一人、デスクワークをこなしていた。
 ふと時計を見て、手を止める。

「んー……、少し、休憩しようかしらね」

 席を立ち、部屋に置かれているコーヒーメーカーから、横に備え付けられた紙コップにコーヒーを淹れた。
 内心では「あんまり美味しくないのよね、この豆」と思いつつ。かと言って他に飲むものもないしと、コーヒーの入った紙コップを持って席に戻る。

「……やっぱり、あんまり美味しくないわね」

 以前「オススメの豆があるんだけど、それに変えない?」と提案した時は、何故かメンバー全員から拒否され、以来しぶしぶこれを飲み続けていたが。
 やっぱりマズイものを飲み続けるのはしんどい。今度は別の豆を提案してみようと決意を固めたところで、ふいにルミアのことが脳裏をよぎった。

「今ごろはリゾートコロニーのプライベートビーチかしら」

 無事、ソウジ君と関係を修復できたらいいわね。と、純粋に思いつつ。
 その一方で、どうにか関係を修復してもらわないと困るという、仕事の上司としての切実な気持ちもあった。
 ハッキリ言って、ここ数日のルミアは使い物にならなかったのだ。
 今のところ、自分や他の同僚たちのフォローで凌げたものの、いつまでもそんな綱渡りを続けられるわけがない。
 扱う仕事の性質上、おいそれと新しい人材を入れるというわけにもいかないし。一日でも早く元に戻って貰わないと非常に困る。

 ――もっとも。腹の底では大して心配はしていないのだが。
 なにせマヤは、まだまだ二人がヒヨッ子だった頃からずっとその成長を見てきたのだ。
 二人に何があったのかは知らないが、今回も機会さえ与えれば、ちゃんと乗り越えてくれると確信していた。

 だからどちらかと言えば純粋な気持ち――言ってみれば親心のようなものの方が勝っている。

「それに、試練を乗り越えた方が愛ってのは盛り上がるものよ。ふふふ……、夏は少女を大人にする、なんてね」

 ……多分に下世話な感情も混ざっていたりするが。
 その時、執務室の扉の開く音が聞こえてきた。マヤが視線を向けると、その先には。

「マヤさん」
「あらルウ。どうしたの?」

 まず仕事の話だろうけれど、なにかあったかしらと、思考を巡らすマヤ。

「例のリゾート施設の件でお話が」
「例の……?」

 さて、なんの話だったかしら。そうそう確か内密の依頼だったわよね。
 リゾート施設に客として入って秘密裏に片付けて欲しいっていう。
 本当ならこんな依頼受けないんだけど、例の事変でもお世話になった元政府の偉いヒト経由での依頼だから、ウチとしても強く出られないのよねぇ。
 普段はすごく厳格なヒトなのに、息子さんには甘いこと……。あの息子さんは一度痛い目に合わせた方がいいと思うんだけど……。ま、私が口出すことじゃないか。
 とにかく、そのために一般客を装えるよう、チケットを渡されて、渡されて――

「――あ゛っ」



***



 俺はエミリアの手を引き、バタ足の練習をさせていた。

 エミリアが泳げないと知った直後、胸をかすめたのは、やるせなさだった。
 元来、やらせれば何でも人並みに出来る少女に泳げない理由があるとすれば、それは外的な要因だろう。
 幼い頃から研究漬け。そうして散々利用してきたガーディアンズから、まるで捨てられるように放り出され、無気力に過ごす日々。
 泳ぎなど教わることもなければ、覚える意欲も沸かなかったであろうことは想像に難しくない。

 それを裏付けるように、教え始めてからのエミリアは実に順調なものだった。顔を海水に入れて、出して、足をバシャバシャ。

「……ぷはぁ! すーはー……」

 バシャバシャ。

「……ぷはぁ! すーはー……」

 バシャバシャ。

「……ぷはぁ! すーはー……」

「ストップ!」

「……え? ストップ? うん、わかった」

 手を離すと、エミリアは海中に立った。胸元まで海水に浸った状態で、ヘソ上まで海水に浸っている俺と向き合う。

「……なあ、エミリア。もうちょっと長く顔を水につけてられないのか? それじゃあ息継ぎの練習にならないだろ」

 さっきから顔を海水につけたと思ったらすぐに上げているのだ。
 それだけならまだしも、明らかに顔を上げると同時に呼吸をしている。
 海中で息を吐いて、顔を上げたら息を吸えと、ちゃんと教えたはずなんだが……。

 しかし俺の言葉を受けたエミリアは、両手を上げ、やれやれと言った様子で首を左右に振る。
 「何もわかってない」と言わんばかりのジャスチャーだ。

「ふぅ……ソウジ、知らないの? ヒトっていうのはね、水中じゃ息できないのよ」
「……というと?」
「海に顔入れたら息できないでしょ! 息しないと死んじゃうでしょ!? おまけに貴重な肺の中の空気を水中で吐き出すなんてそんなに死にたいの!?」

 目を見開きそう語るエミリアは、やたら力強かった。

 …………………………なるほど。つまり水に対して苦手意識があるということか。
 考えてみればその辺のことを聞いておくのを忘れていた。
 浮輪を使って海には入るつもりだったのだから、決して"水がダメ"なのではないと思うが、果たしてどの程度だろうか。

「エミリア。お風呂には入ってるか?」
「なっ!? し、しつれいな! 毎日ちゃんと入ってるわよ!」
「湯船には浸ってるか?」
「30分は浸かってるわよ!」
「顔は洗ってるか?」
「当然でしょ!?」
「シャンプーする時はシャンプーハット使う派か?」
「それはまあ、使うけど……」

 うーむ、水中に顔を入れることに慣れていないだけ、ってところだな。
 俺は頷くと、何故だか右腕を鼻に当ててるエミリアの頭に、右手を乗せる。

「くんくん……なに? くん……もしかして、くんくん、臭ってる? くんくん……いや、でもちゃんと香水だってつけてるし……!?」

 ビクリと肩を震わすエミリア。おずおずと上目遣いでこちらを見ている。

「そ、ソウジ……?」

 にこりと笑みを浮かべる、何故だか頬を染めるエミリア。

「よし! じゃあバブリングからはじめようか! まずは10秒なー、はい、息止めて−」
「ちょ、頭おさえたのって……! ……ぶくぶく」

 何か言っていたが、そのままエミリアの頭を海へと押し込む。
 ちなみにバブリングとは水中に顔を入れて、ぶくぶくと鼻から息を吐くことだ。
 頭頂部までしっかり海中に押しこむと、数字を数え始める。浮かぶ水泡。よしよし。

「9……10!」
「……ぶはぁ! こ、殺す気かー!」
「よし、もう10秒行こうか!」
「き、聞いてない……。この理不尽っぷりはもしや教官モード……? っくぅ! 久しぶりだから忘れて……!? そ、ソウジ! あれ! あれ!」
「ん?」

 何やらぶつぶつ言っていたエミリアが、突如血相を変えた。
 あまりの豹変ぶりに、思わず指差した先を見る。だいぶ沖の向こうに、ルミアの使っていた青いボードだけが浮いている。
 ボードだけ? ルミアは……。

「……いない?」
「いきなり水飛沫が上がったと思ったら! ルミアがいなくなったのよ!」

 慌てふためきながらも、目撃した出来事を説明するエミリア。俺は即座に判断を下す。

「――エミリア! ビーチに上がってガーディアンズ……マヤさんに通報してくれ!」
「わかった! ソウジは!?」

 そんなのは決まっている。 
 ヒトは息をしないと死ぬ。海の中でヒトは息をすることは出来ない。ルミアは海に没した。
 ならば、俺が今とるべき行動はただ一つ!

「ルミアを助けに行く!」

 ゴーグルをかけると、そのまま海へと飛び込んだ。
 両の腕で波をかき分け、ルミアが乗っていたボード付近まで泳いでいくと、そこから海中へと潜り込む。

 眼下に広がる海中は、深く広い。底に至っては薄暗く、光も満足に届いていない。
 裸眼では無理だ。ゴーグルを生体探索モードにして必死に視線を走らせる。
 ピピッ。そんな音と同時にゴーグルが視界の端をロックオンした。そこには確かに人影があった。しかし顔までは見えない。拡大。

(ルミア!)

 気絶しているのか、その瞳は閉じられている。手足を上下に伸ばし、真っ直ぐと海中に沈んでいっている。
 早く助けなければ……真っ直ぐと、海中に沈んでいっている?
 違和感、と同時に、ルミアの両足に何かが絡みついていることに気がついた。イボの付いた、太く長い何か。それを辿っていくと。

(あれは……ル・ダッゴ?)

 ルミアの足に絡みついていたあれは奴の触手か。あの触手でボードから海中へ引きずり込まれたと見て間違いないだろう。
 ……しかし大きさが尋常じゃない。ギール・ゾーグ並の巨体じゃないか。
 薄暗い海底に佇むその巨体は不気味の一語だった。かつて何かの資料で見た、木造の帆船を襲う巨大ダコの絵を思い出す。
 一部の旧人類にとって、タコがデビルフィッシュと言われていた理由が、今なら分かる。

(あれは突然変異種? 異常成長? ――いや、そんなことはどうだっていい。ルミア! 今行くぞ!)

 俺はナノトランサーからダブルセイバーを取り出す。同時にフォトンアーツを展開。ガーディアンズ時代から鍛え上げたLv50のトルネードダンス。フォトンによる爆発的な推進力によって、ルミアの元へ一直線に突進していく。純粋な肉体的泳法では決して到達し得ぬ加速力によって、グングンとルミアへの距離を縮めていき、足に絡みついた触手を引き裂いて止ま――れず、そのまま更に水底にいる巨大ル・ダッゴに突入し、引き裂き、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、その息の根を止めた。

 ……完全に勢い余って殺してしまったが。それよりも! と、巨大ル・ダッゴの肉片と、どす黒い体液に染まった海中に背を向け、同時に装備をスピアへ切り替える。
 と同時にドゥース・マジャーラ発動。もちろんこれもガーディアンズ時代から鍛え上げたLv50である。
 全身プロペラのトルネードダンスに比べれば多少速度は落ちるが、空いた両腕ですれ違いざまにルミアを抱え。海面を目指して全速力で突進していく。

(絶対に助けてやるからな、ルミア――!)


***



 漂っている。
 何も見えない。暗い暗い真っ暗闇の中を。ただ、漂っている。
 動かそうとしても躰は動かなくて、上も下も分からない。
 普通ならパニックの一つ起こしそうな状況なのに。不思議と、私の心は穏やかだった。
 ここには煩わしいことなんて、一つもない。あるのはただ、闇だけ。

 ――このまま、身を委ねてしまおうか。
 そう思った時だった。

「……ミ……ッ!

 どこからか、音が聞こえてきた。本当にかすかな音。

「……ア……!」

 段々と、単なる音が形になっていく。

「……ミア……!」

 誰かの声。どこかで、聞き覚えのある、この声は――ソウジさん?

「ルミアッ!」

 瞬間、視界が開いた。目に痛みが走る。光。思わず右手で両目を塞ぐ。

「ルミア!」
「ルミア! 大丈夫!?」

 聞き覚えのあるヒト達の声。急速に働き出す頭。私は右手をゆっくりと両目から離していく。
 最初に見えたのは、陽の光だった。次に、私を左右から挟みこむように人影。
 逆光が影になり、顔は見えない。けれど、見慣れた人影。ピントを、そちらに合わせる。

「エミリア……。ソウジさん……」

 左側にソウジさん、右側にエミリアが、ホッとした様子で私を見下ろしている。
 背中に冷たい……ビニールの質感。どうやら私は、ビニールシートに仰向けで寝転がっているようだ。

「ん……」
「おっと」
「大丈夫?」

 左膝を立てて、上半身だけ起き上がろうとしたら、二人は慌てた様子で私の背を支えてくれた。

「すみません……」

 お礼を言うと、私は何があったのか記憶をたどる。
 ここはリゾートコロニーのプライベートビーチ。私たち3人で遊びに来て、私だけ沖の方にぷかぷか浮いててて、それで。

「いきなり何かに足を掴まれたと思ったら、海に引きずり込まれて……」

 もがいて、意識がなくなって、それからどうなったのか。

「ソウジが助けに行ったのよ」

 疑問に答えてくれたのはエミリアだった。

「そうなんですか……。ありがとうございます。ソウジさん」

 ――助けてくれた。
 嬉しいという気持ちに、申し訳ないという気持ちも混ざって、きっと変な顔をしてしまったのだろう。
 なんてことなさげな様子でソウジさんは言う。

「気にするな。……それにすぐ駆けつけられたのは、引きずり込まれたことをエミリアが教えてくれたおかげだからな」

 エミリアが。――純粋に嬉しかった。さっきあんな風にからかったのに、それでも助けてくれた。
 それと同時にさっきのからかいに対する罪悪感が蘇る。かと言って、今さら謝っても今度はエミリアの方が困ってしまうだろう。
 決して長い付き合いじゃないけれど、エミリアの性格は大体わかってるつもりだ。だから。

「エミリアもありがとう」
「なぁに、いいってことよ!」

 だからせめて、ペコリと素直に感謝すると、エミリアは豪快に笑い飛ばした。
 クラウチさんの真似。いつもならすかさずツッコミを入れてたと思うけど、今はその豪快さが小気味よかった。

「ところで、私は一体何に引きずり込まれたんですか?」
「……ル・ダッゴに引きずり込まれたんだ」
「ル・ダッゴ?」

 すぐには思い浮かばなかった。確か……タコみたいな原生生物だっけ。

「あぁ、それもバカでかい。ギール・ゾーグくらいの大きさでな、びっくりしたぞ。……多分ゴーグルに映像が残ってるけど、見るか?」
「いえ……。でも、なんでル・ダッゴなんかがプライベートビーチに」
「……えーっと、だな」

 チラリと、ソウジさんはエミリアに視線を向ける。

「……うーん、なんて言うか」

 二人揃って困った顔をしている。……何? 何があったの?
 ソウジさんはゴホンと咳き込むと、私の目を見つめる。そこに同情の色を感じたのは気のせいだろうか。

「……要するに、マヤさんのうっかりだったんだ」

 私たちがいるプライベートビーチに原生生物が入り込んでいたことを、運営側は以前から把握していたらしい。
 もっとも、あそこまでル・ダッゴが異常成長しているとは知らなかったらしいが。
 清掃業者がビーチを悠々と歩いていたル・ダッゴを見て仰天、即封鎖。その後ビーチ関係者は恐ろしくて誰も入っていなかったそうだ。
 プライバシーの問題で監視カメラの設置はせず。
 代わりに安全のため導入していた生体反応検知装置は、ル・ダッゴのような軟体動物の生体反応を検知できないという欠陥があったらしい。
 それに関しては、義母がリゾートコロニーに本拠地を構える民間軍事会社のCEOであり、本人は研究者であるエミリア曰く。

「こういう大型商業施設向けの生体反応検知装置って、今めちゃくちゃ審査厳しいんだから。そんな重大な欠陥抱えたまま販売なんて出来ないわよ。
 欠陥というより、単に予算をケチっただけでしょ。どうせ"人間の生体反応だけ検知すればいいや"って、プール用の監視装置でも導入したんじゃないの?
 箱だけ立派で中身はハリボテなんて、リゾートコロニーの施設じゃ珍しくない話だしねー。で、そういうところに限ってバックに偉いヒトがいたりするんだとか」

 ――ともあれ。
 このことを公にし、施設そのもののイメージが下がってしまうことを危惧したらしい運営側は。隠密裏による原生生物殲滅をガーディアンズに要請。
 あくまでも客としてプライベートビーチに入り込み、原生生物を殲滅する――つまり私たちが渡されたチケットは、本来そのための物だったのだ。

「マヤさん……」

 がっくりと肩の力が抜ける。そんなミスで死にかけたのか、私は。
 ちなみに、あのル・ダッゴがどこから入り込んだのかは今のところ不明。異常成長の原因と同時に追って調べるらしいけれど――心底どうでもよかった。

「通信した限りじゃ、マヤさんも相当反省してるみたいだったよ。ルウにも大目玉くらったみたいだ。だからどうというわけじゃないけど……ま、ほどほどにな」
「……はい」

 ソウジさんは言外に「マヤさんをあんまり怒らないでやれ」と言っているのだろうけれど、初めから怒る気はなかった。
 結果はこうなったけれど、元は心からの親切心だと分かってるからだ。
 怒るというより、やるせない気持ちでいっぱいだった。親切心がから回ってしまったマヤさん。その親切心に応えられなかった自分。ただただ、やるせない。

「……そ、そういえば、もう夕方ね」

 シュンとした雰囲気の中、エミリアが声を出した。言われてみれば周囲が薄暗い。
 ……それぞれの時間の都合で昼過ぎに集まったとはいえ、どれだけ意識を失っていたのだろうか。
 エミリアだって休日が潰れて残念なはずなのに、努めて明るい声を出してるのが伝わってきて、申し訳ないやら……。
 せめてその思いに答えるべく、私も努めて明るい声を出す。

「そうね、そろそろ帰らないと……っ!」
「どうしたルミア?」
「いえ、ちょっと右足が……っ……!」

 立ち上がろうと、右足を動かすと同時に鋭い痛みが走る。特に足首を動かそうとすると、一瞬呼吸が止まる。

「ちょっと見せてみろ」

 そう言って私の右足を両手で持ち上げるソウジさん。
 右手てふくらはぎを支えるように持ち、左手で土踏まずの部分からガッシリ足を掴む。

「そ、ソウジさん?」

 生足をソウジさんに掴まれただけでも恥ずかしいのに、今の私は水着姿だ。ということは、下半身なんかは限りなく裸に近いわけで……。
 思わず恥ずかしさに声をあげたけれど、至って真面目なソウジさんの顔を見て、今度は違う意味で自分が恥ずかしくなってきた。

「痛かったら言ってくれ」

 そう言って、ソウジさんは左手を動かす。

「――!」

 思わず背中が反り返る。声も上げられない。
 ほんの少し、つま先を上げられただけで、衝撃としかいいようのない痛みが走った。

 そんな私の様子を見たのか、すぐにソウジさんは左手の力を抜く。
 ゆっくりと私の足を下ろしながら、呟くように言う。

「……あのタコに引っ張られた時、腱を痛めたか」
「そういえば、海に引きずり込まれた時、右足を掴まれたような……」
「恐らくそれが原因か」

 あっという間に海中まで引きずり込まれたのだ。あの勢いを考えれば、腱を痛めたとしてもおかしくない。
 むしろ、それだけで済んでラッキーか。

「……もっとも素人判断だから、あとでちゃんと病院に行くとして……。歩けないことに変わりはないし、帰りはどうしようか」
「そう……ですね」

 たったそれだけで済んでよかった。と言いたいところだけど、歩けないのは困った。
 どうしよう。途方に暮れかかった、その時だった。エミリアが声をあげる。

「じゃあ、ソウジが家まで背負っていってあげたら?」
「え」
「そうだな、そうするか」
「ちょ」

 背負う、所謂おんぶ。ソウジさんに、それをしてもらう? 私が?
 ……あわわわわわわわわわわわわ。
 気まずい。おんぶはともかく、いや、おんぶもかなり恥ずかしいけれど。まだあのことが尾を引いてるのに、二人きりなんて。

「え、えーっと、家に帰るだけなら一人でも大丈夫ですよ。シップはオートパイロットにすればいいんですから」
「なに言ってんのよ。オートパイロットで帰るにしたって、その足じゃ宇宙船ドックまでの付き添いは必要でしょ?
 そこからシップに乗ってガーディアンズコロニーまで帰ったとして、マイルームにはどうやって帰るのよ? 歩いて行くつもり? 一人で? その痛めた足で、どうやって?」
「う……」

 エミリア理詰めの正論。自分でも正直無理があるとは思っていただけに、あっさり潰されてしまった。
 他になにか、なにかないかしら……。

「ねえ、ルミア」

 なにか言おうと思考を巡らせていると、エミリアが声をあげた。いつにない、優しげな声。
 顔を見れば、微笑みを浮かべていた。

「"頼ってくれ"って言ってくれたんだから、素直に頼ればいいじゃない。それも立派な信頼の証……でしょ?」

 パチリと、ウインクをするエミリア。

「……! そう、そうね……」

 確かに、ソウジさんと二人きりになるのは気まずい。
 けれどここでソウジさんの好意を拒めば、それはただのワガママで、問題の先送りだ。だから。

「お願いします。ソウジさん」
「ああ、任せろ」

 斜めから差す夕日に照らされながら。
 そう言って、笑顔で自らの厚い胸板を叩くソウジさんの姿は、とても頼もしかった。



 ***



 ソウジさんは私を背負いながら、ガーディアンズコロニーの居住区画を歩いていた。

 ――私の服装はいつも通りの制服。ナノトランサーにアクセスすればすぐに着替えられるから、ケガは関係なく自分で出来る。
 宇宙船ドッグでの別れ際、エミリアから「ま、がんばんなさいよ」と小声で言われた。

 おずおずとソウジさんの背中に抱きつくと、そのままソウジさんは私のお尻を支えてくれた。
 おかしな声が出そうになったけど、どうにか抑え込んだ私はえらいと思う。
 鍛えあげられたソウジさんの背中はとても頼もしくて、当然ソウジさんの匂いがして、無性にドキドキした。
 身体はソウジさんにピッタリで、肺の中はソウジさんの匂いでいっぱいで。
 こうやって全身でソウジさんを感じていると、細かい不安や、悩みなんかどうでもよくなってくる。

 ……考えてみれば、おんぶなんてされたのは何年ぶりのことだろう。
 本当に小さいころは、外で遊んだ帰り道、ぐずってよくお兄ちゃんにおんぶしてもらったっけ。
 それがいつの間にかおんぶされるのが恥ずかしくなって……。勝手に兄離れした気になって、大人になった気でいて。
 でも、本当にお兄ちゃんがいなくなったら。これまでどれだけお兄ちゃんに助けられてきたかも分かって。自分は単なる子どもだと思い知らされて。さびしくて……。
 そんな時、ソウジさんが手を差し伸べてくれて、一人じゃなくなって。お兄ちゃんもお父さんも戻ってきて。なのに、いつの間にかソウジさんがいなくなって――

「――なあ、ルミア」
「……っ、なんですか?」

 ぼんやりと過去に思いを馳せていたら、ソウジさんが声をかけてきた。
 どこか硬い声に、少しだけ身構える。

「タナバタにさ、ルミア。言っただろう? 『いなくならないですよね?』って」
「……はい」

 思わず体が固くなる。
 律儀なこの人が、このまま何となく流す筈が無いってことくらい分かってたのに。
 でも、どこかでその返事に期待している自分に気がついて――

「あの返事だけど……ごめん、約束は出来ない」

 ――そんなことは、とっくに分かってた。
 なのにマジメなこの人のことだから、曖昧な返事なんか出来なくて、どうすればいいのか考えて考えて。
 それでもやっぱり無理だって結論しか出せなくて。こうして、心の底から苦しそうな声で私に答えてくれたのだ。

 ようやく、どうしてソウジさんに謝れないでいたのかが分かった。
 甘えていたのだ。この人なら、待っていればきっと私の望む言葉をかけてくれる。

『――いいんじゃないですか。連れて行っても』

 あの時、そう言って、孤独に押しつぶされそうだった私に手を差し伸べてくれたように。
 ――「俺はいなくならない」。きっと、そう言ってくれるんじゃないか。そんな、どうしようもない甘え。

「俺はしがない傭兵で、明日どうなるかだって分からない。だから、ごめんな」
「……いえ、私も、無茶なこと言ってごめんなさい」

 謝らないで欲しかった。
 悪いのは私なのに、ワガママなことを言ったのは私なのに。甘えて、ソウジさんを煩わせたのは私なのに。
 急速に心が冷えていく。自己嫌悪で胸が満たされていく。

「けどさ。一つだけ、約束できることならあるんだ」
「……え?」
「俺はしがない傭兵で、明日どうなるかだって分からない。けれど、こうして生きてる限り、俺は絶対に君の元へ帰ってくる。それだけは、約束する」

 瞬間的に、頭の中が真っ白になった。
 次いで顔が、体が、急速に熱を帯びていく。

 ――俺は絶対に君の元へ帰ってくる。それだけは、約束する。

 これって遠まわしに告白――いや、違う、この人にそんな意識は微塵も無いはずだ。でも間違いなく当人は本気のつもりで、本当にこの人は天然って言うか性質が悪いって言うか。今私ってソウジさんに背負われてるんだっけ、なんだか急に恥ずかしく。いや、そうじゃなくて、それより早く答えないと訝しがられちゃうじゃない。

「……はい」

 混乱する頭の中で、辛うじてそれだけを口にすることが出来た。
 さっきまであった自己嫌悪なんかはどこかへ飛んでいった。
 顔も体も真っ赤で、心臓はひどく高鳴っていて、どうにかなりそうだった。

 なのに私をそんな風にした当の本人はケロリとした様子で。
 こうやって乙女心を弄ぶソウジさんは、一度痛い目を見たほうがいいと思った。
 元はといえば私がおかしなことを聞いたのが悪いのかもしれないけど、それはそれだ。
 だからせめてもの報復に、首にしがみついてる腕にギュッと力を入れる。
 さっきよりも強く感じる。ソウジさんの体温。匂い。私の両手の中に、ソウジさんがいる。

 ストンと、胸に何かが落ちた。
 あぁ、そうか――

(――最初から、こうすればよかったんだ)

 いなくなることが怖いのなら、掴んで、離さなければいい。
 そんな単純なことに、どうして気づけなかったのだろう。

「……絶対に、離しませんからね」
「……ん? なにか言ったか?」
「いーえ。……ねえ、ソウジさん」
「なんだ?」
「もう一つ、約束してもらえますか?」
「いいぞ」
「今度、また海に行きましょう。もちろん、みんなで一緒に」
「ああ……、約束だ」



***



「ごめんなさい!」

 執務室。重ねた両手を頭の上に掲げた姿勢で、頭を下げるマヤさん。
 ケガそのものはあっさり回復。あの日から3日挟んで出勤すると、真っ先にマヤさんは私に頭を下げた。

「頭を上げてくださいマヤさん。もういいんです」
「でも……」

 頭を上げるマヤさんだけれど、申し訳なさそうな表情を浮かべたままだ。
 私は、穏やかに言う。

「マヤさんに決して悪気がなかったことは知ってますから。それに……」

 口元が緩む。笑顔が自然とこみ上げてくる。

「約束、しましたから」

 なぜだか、あっけにとられた表情をするマヤさん。
 けれど、すぐにマヤさんも微笑みを浮かべた。

「そう、よかったわね」
「はい」

 ひとしきり笑い合うと、それぞれの席につこうとして。

「……あ、マヤさん」
「なに?」
「あの、部屋の隅にある笹の葉ですけど」

 部屋の隅、空調の風に揺れる笹の葉が見える。
 それを指さすと、マヤさんは「あっ」という顔をする。

「あら、まだ片付けてなかったのね。最近みんな忙しかったものねぇ……」
「私、今から倉庫に片付けてきます」
「えぇ、お願いするわ」

 入れられていた箱ごと笹を持って、私は倉庫へと向かう。

 思えば、今回の件では色々な人に迷惑をかけてしまった。
 上の空で仕事を受けた私をフォローしてくれた皆、チケットをくれたマヤさん、気を使ってくれたエミリア。
 余計な言葉で煩わせて、それでも最後には、精一杯の約束をしてくれた、ソウジさん。

 みんなから受けた恩は、どれも大きい。私に出来ることで、少しずつでも返していかないといけない。
 そのためにも、今日からまた頑張ろう――タナバタの夜は終わったのだから。



























***


 マイルーム。いつものベッド前のテーブルに、あたしとルミアは向い合って座っていた。
 あの日から数日。久しぶりに顔を合わせたルミアは、ただ一言「ありがとう」と言った、きっとそういうことなんだと思う。

 あとはいつも通り、なんてことのない談笑をしていると、不意にあたしは言い忘れていたことを思い出した。
 ちょっとショッキングかもしれないけれど……、言っておいた方がいいよね。

「……そうそう、海行った時のことだけどね。ルミア、あんた心肺停止状態になってたのよ」
「あぁ、やっぱり?」

 平然とした様子で応えるルミアに、あたしは思わず眉をしかめる。

「やっぱりって……、知ってたの?」
「今はじめて聞いたわ。でも状況的に考えると、そうなっててもおかしくはないでしょ?」
「そりゃあ、そうかもしれないけど…・…。死にかけたのに冷静じゃない?」

 言ってから、少し直接的すぎたかなと思ったけれど、ルミアはといえば冷静なもので。

「ガーディアンズになったからには死んで当然じゃないけど。そういう……"死に対する覚悟"みたいなのって、しっかり叩き込まれるのよ。
 ここ数年は色々とひどかったから、特に力を入れてるみたいで……。だから自分でも少し感覚が麻痺してるとは思うわ」
「そうなんだ……」

 ルミアの口から語られた、”死に対する覚悟”という言葉。
 これが、結局は片手間に傭兵業をやってるに過ぎないあたしと、戦うことを生業にしているルミアの差か……。
 息を呑むあたしを横目に、ルミアは細い指先でティーカップを持ち上げた。
 なんてことのない仕草なのに、今はそんな仕草一つからも歴戦の勇士としての風格を感じる。
 自分と一つしか歳が変わらないのに、胸だってあたしより小さいのに……!

「……ねえ、エミリア。今何か失礼なこと考えなかった?」
「気のせいでしょ」

 ジト目でこちらを見つめるルミア。あたしは斜め上を見つめ、素知らぬ顔をする。

「そう……。ならいいんだけど」

 まだ疑わしそうな目をしているけれど、何とか誤魔化せたようだ。
 ……ふう、さすがは歴戦の勇士、勘の鋭さも一級品ね。

「……それで、心臓マッサージと人工呼吸はエミリアがやってくれたんでしょ? 悪いわね」
「ううん、ソウジ」
「え?」

 ティーカップを口元まで運んでいた、ルミアの動きが止まる。

「両方、ソウジがやったの。心臓マッサージも、人工呼吸も」
「……」

 何故だか目を点にするルミア。あたしは続ける。

「ルミアを抱きかかえてビーチまで運んできたと思ったら、すぐに敷いてあったビニールシートの上に仰向けで寝かせてね。
 そこからはもう流れるように心肺蘇生法! あの鮮やかな手際!
 さすがライフセーバーの免許は伊達じゃないなって関心したわ、うん!
 ま、インストラクターとしての腕前はひどかったけど……って、ルミア? なんでテーブルに突っ伏してるの?」
「なんで……、なんでその時起こしてくれなかったのよぉ……」
「起こすってあんた、寝てたわけじゃあるまいし……。そもそも起こすために人工呼吸したわけで……」

 くぐもった、か細い声。さっきまで感じていた風格はどこへやら。
 凄まじい勢いでどんよりとした雨雲に包まれたルミアに、今度は別の意味で圧倒されるあたし。
 ――ちなみに無意識にか、ルミアは手元のティーカップをソーサーの上に戻してました。

「せっかくの、せっっかくのファーストキスだったのにぃ……ひっくひっく」
「いや、さすがにあれはノーカンでいいと思うわよ……っていうか、ガチ泣き!?」

 しかしまあ、ちょっと前まではソウジの話題を出すだけで逃げ出していたのに、すっかり元通りだ。
 それにしても、ファーストキスを気絶してる間に済まされたから泣くなんて、ルミアも乙女チックなところがあるんだ。
 なんてあたしは少し微笑ましく――

「したをからませたり、だえきのこうかんとかしたかったのにぃ……すん、すん」
「涙と一緒に色々流れ出してるから!?」

 ――なった気持ちを返して欲しかった。



















 〜あとがき〜

 完結しました。
 待っていてくれた方々には感謝感謝です。
 そして時間かけ過ぎてごめんなさい。

 元々はep3のルミアとand youの関係補完が目的でした。

 




 2012/12/23 改訂


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