ドラマが終われば、あとは歯を磨いて寝るだけだった。 約束通り、るいのベッドにふたりで入る。 「これがるいさまがいつも使っているベッドですのね……! ふぉおおおおおおおお……! 濃厚なるいさまの匂いですわあ……!」 シーツに顔を押し付けてクンカクンカするうらら。 なにが楽しいのかわからないが、人の楽しみに水を差さないだけの分別をるいは持ち合わせている。 あれからすこしぎくしゃくしていたが、すっかりいつもどおりだ。 「満足した?」 「しましたわぁ……」 顔を上げてトロンとした目で答えるうらら。よっぽど満足したらしい。 「じゃあ毛布をかけるよ」 「毛布! ふわぁああああああああ……! るいさまの匂いに包まれてますわぁ……!」 (そんなにするの? ニオイ?) あまり連呼されれば少々気になってしまうのが人情だろう。意識してみるがやはりわからない。 むしろうららのほうからいい匂いがする。 「うらら、石鹸類も家の人が持ってきてくれたの?」 「置かれていたものをそのままつかわせていただきましたわ。なにか問題でもありましたか?」 「いや――、うららからいい匂いがするからさ。うちってそんなにいい石鹸つかってたかなぁって……」 そういってるいはうつぶせになっているうららの首筋に鼻を近づける。 くんくんと鼻をならすと、うららはくすぐったいのかその音に合わせて身体を小刻みに震わせた。 「さっきもそうだったけど――、うららはくすぐったがりなんだね」 「っ! ……っ! ……っ!」 「うん、やっぱりいい匂いだ……うらら?」 シーツに顔を埋めて黙りこくってしまったうらら。 どうしたのか表情を覗き込もうとしたら、顔を反対側にそむけてしまった。 「うらら?」 「な、なんでもありませんわ……! どうぞお気になさらず……!」 「でも」 「ひゃ!?」 肩に触れるとピクンと身体を小さく跳ねさせた。これはもしや――、るいはひとつの可能性に思い至る。 「体調がわるいんじゃない? だいじょうぶ?」 「え、……ええ! だいじょうぶですわ! これはちょっとした発作みたいなものですから……、すこしほうっておいていただければじきに鎮まりますわ……!」 「そういうことならほうっておくけど……。でも、つらかったらいってね?」 「あ、ありがとうございます……」 声に羞恥の色を感じたが、お嬢様らしく弱ってるところを見せたくない気持ちがあるのだろう。 その気持ちを尊重してるいは何もいわないことにする。 とにかく一枚の毛布にふたりで入ると、るいは部屋の明かりを消した。 暗闇に目が慣れて、照明の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていく。もぞもぞと隣で動く音。うららが寝返りを打ったようだ。 「ふぅ……みっともないところをお見せしてしまいましたわ」 「もう大丈夫なの?」 「ええ、ご心配をおかけてしてしまいましたけれど、このとおり元気ですわ!」 暗がりにうっすら見えるうららの様子はいつもどおりだ。 「それならよかった」と、るいはふたたび天井に視線をもどした。 「るいさまのお母さまはいつも帰りが遅いんですの?」 「むしろ帰ってこない日のほうが多いかな。帰ってきても僕が寝てるくらい夜遅くで、出かけるのも僕が寝てるくらい朝早くって感じだね」 「お仕事はなにをやっているのかご存知で?」 「実はよく知らないんだ。あの時うららのお父さんから聞いて、華咲グループで働いてたってことすら初めて知ったし。ひょっとしたらうららのほうがくわしいんじゃない?」 そういって水を向けてみれば、うららは教えてくれた。 「華咲電機の花形部署である企画開発部の室長をしているそうですわ。いくつかの大きなプロジェクトをまとめ上げ、成果を残したとても優秀なお方だとか」 返す返すも、るいは母の仕事についてはよく知らなかった。 せいぜい背広を着て、朝早くから夜遅くまで働いていることくらいしか知らない。 しかし今こうして聞かされた情報から理解するに、どうやらるいの想像以上に優秀な人物だったようだ。 いや――、想像などするまでもなく自分は理解していたはずだ。 「僕の父さんのことは聞かないの?」 「るいさまのお父さま……」 ケイから提示された可能性。うららとの関係に華咲家の意向が働いているのかについては、どうでもいいことだった。 しかし常識的に考えれば、華咲家がるいの身辺調査をやっているのは間違いないだろう。事実、うららからはためらう雰囲気が感じられた。 「その……お亡くなりになられたとだけ……」 やはり知っていた。知っているのなら触れないのは当然のことだ。 不幸があった身内のことなど話題に出したところで気まずくなるだけなんて、だれでも分かる。軽く流して、あとは何事もないように振る舞うのが正しい。 『るいるいは、もうちょっと身近な人に甘えてみてもいいとおもうの』 だというのに、ふいにそんな言葉が脳裏に過って――、るいの口は自然と動いていた。 「僕の父さんはね――、自殺したんだ」 「え? ですが華咲の調査では……」 困惑した声色。それはそうだろう。けれどるいは止まらない。 「まちがいなく事故死だよ。でもね、俺は自殺だとおもってるんだ」 思い出す。ありし日の父の姿を。さびしそうな笑みを口元にたたえているのが印象的な人だった。 いつも家にいて、たまにふらっと出かけては2〜3日ほどで帰ってくる。 漠然と仕事に出かけているのかとおもっていたが、そうでもないような気配もあった。 るいが止まらないと見て、うららはおずおずと相槌をうちはじめる。 「……なんのお仕事をなさっていたのか、お訊きにはならなかったのですか?」 「あるよ。でも、おしえてはくれなかった」 あれは物心ついた頃、父に何の仕事をしているのかと訊いたら、さびしそうな笑みが一層深くなったことを覚えている。 それ以来、父の仕事について訊くことも、調べることもるいはやめた。母もまた特になにもいわないし、家族関係も良好、幼いるいにはそれだけでよかったのだ。 仕事で家を空けることの多かった母とちがい、いつも家にいる父はなにかとるいを連れて遊びに出かけてくれた。 手を引かれながら近所を散歩する程度のことだったが、それでもるいにはかけがえのない、たのしい時間。 同級生からは、お兄さんに連れられているとまちがわれることが多かったことを覚えている。 『そんな若くみえるのかねぇ……』 さびしそうな笑みを浮かべながらそうつぶやく父の姿を、いまも鮮明に思い出せる。 時折、父を見てヒソヒソと話す人たちがいた。なにを話していたのか知らないし今持って興味もないが、その態度が気持ちのいいことではないことくらいは分かる。 るいは己の他者へ対する関心が希薄であることを自覚していた。その根本原因は、たび重なる引っ越しによる人間関係の移り変わりの激しさにあるのだと分析している。 同時に、そういった経験がさらに他者へ対する関心を希薄にさせていったことも事実だろう。 家族が――父さえいればいい。いつもいっしょにいた父はるいにとっての寄る辺であり、なによりも大切な存在だった。 『たまにはお母さんと遠出しましょ?』 そんなある日のことだ。小3。めずらしく父ではなく母に連れられて出かけることになったるいは、大きな学習塾で試験を受けることになった。 全国統一テスト。この日のために努力してきた子供たちが集まる中にいきなり放り込まれたのだ。 るいも最初こそ張り詰めた空気に困惑したものの、だからといって周りに何をされるわけでもないので、すぐに平常心で試験を終えた。 その時点でるいは塾に通ったこともなければ、通信教育だって受けたこともない。 母もあまり結果には期待していないようだったが、それでも一人息子に対する欲目がなかったといえばウソになるのだろう。 そして果たしてなるかな――、るいは上から4番目の好成績を叩き出した。 『さすが私の息子ね!』 未来の話をすればそこがるいのピークだった。 後に2回ほど同じ全国統一テストを受けたが、それぞれ17位・24位といった順位に落ち着くことになる。 なんにせよその時の母の喜びようといえば尋常なものではなかった。 るい自身はビギナーズラックみたいなものだと思っていたが、家族に褒められればうれしいのは当然のことだ。 もちろん父も褒めてくれた。いつものようにさびしそうな笑みを浮かべて。 『おめでとう、るい』 けれどその表情に翳があることに、いつも父といっしょにいるるいはすぐに気がついた。 日常に戻り、いつものように父に連れられて散歩する。 もう手を引かれるような歳でもないからと、その頃になるとふたりで並んで歩くようになっていた。 なのになぜだかその日、るいは父に対して手をつなぐことをせがんだ。 どうしてそうしたのかはわからない。ただそのまま手をつなぎ続けていればよかったといまでも時おり考える。 父から『いいよ』と差し出された手を左手で掴んで歩く。夕焼けの道。伸びるふたつの影。ポツリと父の声。 『るい』 顔を上げれば、ちょうど夕日が逆光になって父の目元が見えない。 けれど口元にはしっかりと、いつものさびしそうな笑みが浮かんでいて。 『父さんはね、"特別な人"になりたかったんだ』 それにどんな言葉を返したのかるいは覚えていない。ひょっとしたら言葉なんかなにも返していないのかもしれない。ただハッキリ覚えているのは、信号が変わりかけているのに気づいて、手を離してひとりで駆けたことだ。無事に横断歩道を渡りきって振り返れば、赤信号の向こうに父が立っていた。るいが手を振れば振り返したりして、そんな風に時間を潰しているうちにようやく信号が青になる。その動きはえらく緩慢に見えた。歩き始める父。横断歩道の中ほどに差し掛かると、大きな影が父を飲み込んだ。ガシャンと音。大きな影はそのまま植え込みに乗り上げて停まった。大きな影の下から広がっていく、黒。赤。赤。赤。赤。夕焼けに赤く染め上げられた世界の中で、大きな影と、広がっていくそれだけが黒く染まって見えた。 『あの車が赤信号なのに無視して突っ込んできたんだ!』 幸い――というべきなのだろう。 夕方の交差点には目撃者となった人がたくさんいて、父の死は疑う余地もない事故死として世間には認識されたのだ。 加えて車の運転手が危険ドラッグを使用していたことも明らかとなり、多くの人に悼まれる死となった。 ここまで話すと、うららに問いかけられる。 「……るいさまがいわれたとおり、やはり痛ましい事故だったのではありませんか?」 「笑ったんだ。車に轢かれる寸前に」 それはいつも浮かべているさびしそうな笑顔ではなく――、心の底から安堵したような笑顔だった。 あの笑顔の意味はなんだったのか。いつも浮かべていたさびしそうな笑顔。特別な人になりたかったという言葉。 混乱する頭の中で情報が結合し、ひとつの結論を導き出した。 きっと、父にとっての人生は死ぬまでの消化試合に過ぎなかったのだ。 父はこのままいけば車がぶつかることを察していて、ようやく終われると安堵して、だからこそあんな笑顔を浮かべたのだと。 「……だから、自殺だと?」 「うん」 沈黙。どうしてこんなことを話してしまったのか、るいには自分で自分がわからない。 るいだってわかってる。自分の考えがおかしいことくらい。こんな筋道の通ってない話をされればだれだって困る。 わかっているからこそずっと胸に秘め続けていたのだ。なのにどうして自分は喋ってしまったのだ。 にわかに後悔し始めていると、つぎに口を開いたのはうららだった。 「もし、るいさまのいうとおり自殺だったとしたら……」 そこまでいって逡巡する気配。しかしそれはすぐに消え去り。なにか意を決したような。そんな気配に変わった。 「……これからひどいことをいうかもしれませんけれど、よろしくて?」 「うん」 「るいさまのお父さまには、きっと特別な人がいなかったのだと思いますわ」 「……どうしてそうおもったの?」 「だれもが特別な人になれるわけがない。でも、特別な人をつくることはだれにだってできますわ」 「……たとえば?」 「たとえば、友人、恋人、それに……自分の息子。わたくしなら、そういった特別な人を置いて死のうだなんて思いませんもの」 ふいに左手がやわらかい感触に包まれた。うららがやさしく握りしめたのだ。 その時になって、初めて自分の手がこわばっていたことに気がついた。 顔を横にたおせば、すぐ目の前にはうららの顔。暗闇の中にあっても輝く真摯な瞳が向けられている。 「だからるいさまのお父さまが車に轢かれる瞬間、たしかに笑ったのだとしたら……」 「……うん」 「それはきっと――。るいさまが巻き込まれなくてよかった。そう、心の底から安堵したからだと思いますわ」 うららはふわりとほほ笑む。 まるでしみわたるような――あの日、父が見せたような――やさしい笑顔だった。 「とはいえ、実際るいさまのお父さまがなにをかんがえていたのか、そんなことはだれにもわかりませんわ。ましてやわたくしには尚のこと。だって、わたくしは"特別な人"なんですもの」 そうして今度は不敵に笑う。初めて会った時からなにも変わらない、自信に満ち溢れた表情。 「そして、わたくしにとってあなたは特別な人。あなたにとってもわたくしは特別な人。そうでしょう? わたくしは――、決してるいさまの手を離したりはいたしませんわ」 過去を飲み込んで。消化して。そのうえで自分たちがこれから行く人生には輝かしい未来だけが待っていると信じて疑っていない、そんな力強い瞳だった。 嗚呼――、とるいは心のなかで嘆息する。やはり彼女は"特別な人"なのだと、理解する。 「それではるいさま、おやすみなさい」 「うん……、おやすみ」 うららと手を繋いだまま、るいはまぶたを閉じる。 その日は父が死んだあの日以来、数年ぶりに夢を見ることがなかった。 ***
|