物心ついてから最初の記憶は、消毒液のニオイだった。
 窓際にあるベッドの周囲には大人たちが立っており、枕元に最も近い椅子に母が座っている。
 前のめりになってベッドに顔を近づけながら、時おり首をコクリコクリと動かす。
 大人たちは物音ひとつ立てず、室内にはいたむような、張り詰めたような、形容できない緊張感が漂っている。
 そんな光景をすこし離れた位置で、隣に立つ父の手をぎゅっとつかみながら見つめていると、母が顔を上げてうららを見た。

「うらら。来なさい」

 声をかけられてとっさに父の顔を見上げれば、こくりとうなずいた。
 離された手。「さ、行きなさい」という父の言葉に背中を押され、うららはおそるおそる母のもとまで歩いていく。
 そのまま膝に抱き上げられると、枯れ枝のようにやせ細った老婆がベッドに横たわっているのが見えた。
 濃密な死の気配におもわず顔を背けたくなる。しかしそれは決してやってはならないことだと、幼いなりに理解していた。

「お祖母様からあなたにお伝えしておきたいことがあるそうです。さあ、お口元に耳を近づけて」

 いわれるがまま、うららは耳を近づけていく。
 祖母はもはや呼吸するのも一苦労らしく、ただでさえしわがれた声には力がない。
 けれど不思議とうららの耳にその言葉はハッキリ伝わった。

「……華咲の女は、生まれながらにすべてを持っている。けれど……、すべてを手に入れることはできない。……そう、心得なさい」

 それが華咲うららの記憶する――、最初で最期の祖母の言葉だった。



 ***



 そこから先の記憶は、ひたすら華咲の世継ぎとしてふさわしい教育を詰め込まれる日々だった。
 遊ぶことを知ったのは幼稚舎に入ってからで、自分の時間を持てるようになったのは小学五年になってからだ。
 だが、うららはそんな自分の境遇について不満を覚えたことはない。
 しがらみばかりだったがストレスはなかったし、そもそも華咲うららは"つまづいた"ことがなかったからだ。
 なにをやってもあっさり習得。容姿端麗にして文武両道。そのうちに周囲の人々は囁きはじめる。

「お世継ぎ様は今代"も"ご優秀らしい。これでまたしばらく華咲家はご安泰だ」

 ただでさえ恵まれたうららを取り巻く環境は良くなることはあっても悪くなることはない。
 やがてなにをやっても勝手に好意的に受け取って称賛されるようになる。これで一体なにに対して不満を抱けというのだろうか。
 同年代の少年少女との集まりでは気をつかうが、それは例えるならペットが喧嘩をしないように注意を逸らすのと同じようなものだった。
 相手だってうららを人ならざる神か仏のように扱っているのだから、そこらへんの扱いについてはおあいこだろう。
 それだけなら歪んだ人間観を育んでしまいそうなものだが、ケイとルキがいた。

「できましたわー!」

「ルキもできたよー!」

 聖英幼稚舎。その花畑にて、作った花かんむりをその場に立ち上がって頭上にかかげる幼いうららとルキ。

「うう……、うまくできないよぉ……」

 ひとり座ったままの、まだほたると名乗っていたころのケイ。
 その手にはぐしゃっとなった花。べそをかいているケイに、うららは花かんむりを差し出す。

「それじゃあ、ほたるにはわたくしがつくったかんむりをさしあげますわ!」

「いいの?」

 べそをかきつつ上目遣いでうかがうケイ。いまでこそ飄々としているが、幼いころは泣き虫だった。
 なお、手先の不器用さはいまも変わっていないというのはここだけの話だ。
 うららは笑顔で答える。

「ええ! もういちどつくればいいだけですわ!」

 ルキもまた天真爛漫を絵に描いたような笑顔でそれに便乗する。

「ルキもあげるー! ほたるのあたまにのっけてあげるね!」

 手にはうららから渡された花かんむりを、頭にはルキに花かんむりを乗せられて、はにかむケイ。

「ルキもありがとう……。えへへ……」

 "華咲の世継ぎ"としてではなく、うららをうららとして見て、接してくれる幼なじみにして、かけがえのない親友たち。
 彼女たちとは大人たちの思惑のもとに引き合わされたが、果たしてそのことになんの問題があるだろうか。
 先に「なにをやってもあっさり習得」などとカッコつけはしたが、あれだって家庭教師陣は華咲が選別に選別を重ねた一流揃いだったおかげも大きい。
 どんなボンクラでも並以上の成績は取れるようになるだろうし、仮にボンクラ未満であっても、体裁を整える手段などいくらでもある。
 人類滅亡規模のカタストロフィーでも起きないかぎり、華咲に生まれた時点で表向きの栄光は約束されたも同然。
 「華咲の女は生まれたときからすべてを持っている」――。祖母の言葉はうそ偽りのない事実だと、齢を重ねるたびにうららは実感する。
 自分の持ち物はすべて与えられたもの。
 けれどそれで紡いだ絆も、それで出した成果も、まちがいなく自分の努力の賜物だと、うららはそう信じている。
 ただその一方で――、お膳立てされたものではない。なにかを自分の意思で決めてみたい気もちがないといえば、ウソだった。



 ***



 小学3年生のある日のこと。うららは母に連れられて演劇を見た。有り体にいえば貴族社会を舞台にしたロマンス劇。
 筋書きとしては、ある国の王子様がいい感じになったお姫様に実は許嫁がいることを知り、簒奪すべく奮闘するというものだった。
 前時代的な価値観を主軸にしたフィクション。しかしである。自分の生まれ育った環境もたいがい前時代的な価値観で動いているのだとおもい返す。

(もしかして、わたくしにもいいなずけがいたりするのでは?)

 可能性としては大だろう。
 演劇を見終わってから入ったフレンチレストラン。予約していた個室で母とふたりきりのランチを済ませると、食後のティータイム中に問いかけてみた。
 すると意外な答えが返ってきたのだ。

「そんなものいませんよ。華咲の女は、結婚相手を自分で見つけるものです」

「……じぶんで?」

 聖英は幼稚舎から大学までエスカレーター式。
 うららのクラスメイトは固定されており、よほどのことがないかぎり変化はないと知っている。

「あの……、もしかしてクラスメイトのなかから……」

「ちがいます」

 母にあっさり否定されてホッとするうらら。
 一応、クラスメイトに対して親しみはそれなりにある。お家に人生を縛られているという点では共通しているからだ。
 しかしだからといって、たのしい家庭を築ける気がまったくしないのも嘘偽りのない本音だった。
 端的にいえば彼らは"お家意識"が強すぎるのだ。
 結婚しても実家の利益のため華咲家からいかにしゃぶり尽くすかだけを考えるだろう。
 幼い頃から母と父のアツアツっぷりを見せられているだけに、うららは利害だけで結ばれた家庭などイヤだった。

「あなたがなにを考えているのかはだいたいわかります。そしてその懸念はきっと正しいでしょう。ですが、彼らがいざという時のストックであることだけはしっかり意識しておきなさい」

「……はい」

 つまりもしも他所で婚約者が見つからなかった場合、クラスメイトの中から自分で種馬を選べということだった。その目星くらいはつけておけ、と。
 おそらく形ばかり籍を入れて、子どもが生まれて数年後に籍を外すということになるのだろう。
 もっともこの時点では具体的にそこまで思い至ることはなかったが。

「ですがおかあさま。クラスメイトいがいからみつけるとなれば、いっきにハードルがあがるのでは……?」

 うららの生活は基本ガチガチにスケジュールが固められている。
 自由時間での行動も管理されており、自宅で乗馬をしたり動画配信サービスをつかって遊ぶくらいが関の山だった。
 言葉は悪いが男漁りをする余裕など見当たらない。が、母はそんな懸念を一蹴する。

「心配せずとも、年齢が上がるにつれて自由時間とやれることは増やしてあげます。どれだけ遅れても、大学卒業までにはきっといい人を見つけられることでしょう」

 母の言葉は力強かった。
 あまりの力強さに一体どこにそんな自信があるのか不思議になる。
 うららのそんな気もちが伝わったのか、母はじっとうららと視線を合わせた。母娘の赤い瞳が交差する。

「華咲の女はね――、ぜったいに運命の人を見つけることが出来るのよ。そういうふうに出来ているの」

 理屈になっていない。だが母の瞳には強い意思が篭められている。
 そしてなにより華咲の名を出されてしまった以上――、うららは信じるしかなかった。
 華咲の後継者に生まれた人間にとって、華咲という名はそれだけ重く、おいそれと口に出せるものではないのだから。

「その……、うんめいのおひとをみつけたときというのは、すぐにわかるものなのですか?」

 ならば見つけられるとした上で、それがどのようなメカニズムでわかるのかだけは聞いておきたかった。
 するとキリッとした表情がにわかに崩れた。「あ、これお父様に甘えているときのあれですわ」と察したときにはもう遅い。

「まず頭の天辺から雷に打たれたような衝撃が走ってね。つぎに胸がきゅうぅ……ってなるの。そこに声を聞いてしまったらもうダメね。和也さま以外の男なんかもう見えなくなってしまったわ」

 うっとりとした様子で語るうらら母。仲がいいのはまことに結構だが、実の親のノロケ話ほど反応に困るものはない。
 しかし母親の言葉を信じるのならいずれ自分も同じような体験をするのだろう。
 そしてこんな桃色の空気を漂わせる日がほんとうにくるのか? その時のうららには想像すらできなかった。

「あ、それとお腹の奥がじゅんってして、下着が濡れます」

「それってもらしただけでは……?」

「ちがいます。あなたもその時がくればちゃんと私の言葉の意味がわかるわ。女に生まれた意味にもね」

「は、はあ……」

「ふふ、たのしみになさい」

 わかりたいような、わかりたくないような。というかどちらかといえばあんまりわかりたくない。
 漏らして下着を濡らして女に生まれた意味がわかるってどういうこと?
 母にウインクを送られながら、なんとも奇っ怪な気持ちに囚われる華咲うらら御年9歳。
 けれどお膳立てされたものではない。自分の意思でなにかを決められることがある――、にわかにワクワクしてきたことも事実だった。
 そして4年後。運命の日は来る。




 ***



 ほんとうに、ちょっとした気まぐれだった。
 中等部の入学式。しかしうららからすれば同じ聖英の勝手知ったる敷地内での出来事に過ぎない。
 校舎にだって入ったことがあるし、外からであれば毎日すぐ横を通り過ぎている。
 クラスメイトも幼稚舎からのエスカレーターで顔ぶれは変わらない。
 これから入学する生徒や一部の内部生たちにとっては、きっと期待と不安に満ちた新生活のスタートなのだろう。
 自分もちょっとくらいはなにか新鮮なことをしたい――。そんなちょっとした気まぐれ。

「ここでとめてちょうだい」

「もう、すぐにご到着いたしますが……」

「だからですわ。これからかよう学び舎ですもの、入学式の今日くらいはゆっくり通学路を歩いてみてみたいんですの」

 登校中。校門からすこしばかり離れた位置で、運転手に声をかけて送迎の車から降りる。
 いつも車で通っていた通学路。左手には歩道と車道を隔てているグレーのセーフティフェンス。
 右手には中等部の校舎を囲むグレーのコンクリートの壁。さらに校内を簡単に覗けないよう木々が植えられている。
 とうに見慣れたはずの風景だが、ただ歩きながら眺めるだけで新鮮味を覚えるのだから単純なものだ。

(歩道はレンガで舗装されていましたのね)

 新たな発見もあり、うららの目的はしっかり達成できたといえただろう。
 朝一で登校していることもあって、通学路には人っ子一人いない。
 うららの周囲にはいつだって人がいて、なにこれとよけいなお世話を焼いたりおべっかをつかってくるのだ。
 それらを捌くこと自体はもはや慣れたものだが、たまにはひとりになりたくなったりもする。
 実のところ、新鮮なことをやりたいというのは建前で、こうやってひとりになる機会を逃したくなかっただけなのかもしれない。
 のびのびとした気もちで闊歩していると、曲がり角を右に折れた先に、人影。

(あらあら……、ひとりきりの時間はこれでおしまいですか)

 残念におもう気もちはあるが、それをまったく引きずらないのがうららの性格だった。
 いつだって自分の意志とは無関係なところで濁流のように物事は動いていく。いちいち感情を動かしていたらキリがないのだ。
 気もちを切り替えて先行する人影を観察する。

(あれは男子の制服……。かんがえるまでもなく男子生徒ですわよね。ケイみたいに男装の麗人だなんて、世の中にそうそういるとはおもえませんし)

 華咲うららは同年代の女子の中でも華奢な体型だ。
 実際のところをいえば、計算され尽くした体調管理によって見た目よりも肉感的ではあるが、一見すれば痩せぎす一歩手前だろう。
 そんなうららと男子にして一見して近しい体格ということは、眼の前の彼は尚さら小柄で華奢な部類ということだった。
 もっとも、あと1年もすればあっさり体格が変わり背を抜かれる可能性は高いだろう。

(男の子の成長期はこれからですものね)

 ふいに男子生徒が立ち止まった。うららも反射的に立ち止まって観察を続けると、屈んで靴のかかとをなにやらいじってる。
 靴ずれが気になる。ということは外部からの新入生だろう。
 幼稚舎や小学部からの内部生ならば、たとえ靴ずれが気になっても我慢するように躾けられているものだ。
 男子生徒が立ち上がる際、そのさびしそうな横顔がチラっと覗いた瞬間――、うららは頭の天辺から雷に打たれたような衝撃を受けた。
 次に胸がきゅうぅ……っと締め付けられて、切ない気持ちが充満する。

(ほしい……、ほしいですわ。あの殿方が――、ほしい!)

 それは平生のうららであれば「浅ましいですわよ!」と一喝するほどに本能的な衝動だった。
 うしろから飛びつきそうになる己を制することが出来たこの時の自分を、うららは後から思い出すたびに褒めてやりたくなる。

「――もし、そこのあなた」

 うららの声に振り向いた少年はかわいらしい、整った顔立ちをしていた。見方によってはボーイッシュな女の子だといっても通用するかもしれない。
 しかし仮に醜男であろうとも華咲うららにはどうでもいいことだったろう。彼が良い。彼だから良い。本能がそう叫んでいる。
 いきなり声をかけられてキョトンとした様子の眼差し。ああ――、自分はいま彼の視線を独り占めしている。ゾクゾクとしたものが背筋を駆け抜けていくのを感じた。
 ふたたびこみ上げる衝動を懸命に押し殺して、うららは品のいい、けれども出来るかぎり親しげな笑みを作る。

「お名前はなんといいますの?」

 少年の唇が動くのを、そうと悟られないように凝視するうらら。はやくそのお声を。そのかわいらしいお口から。はやく。はやく。はやく。

「畑野るいですけど……なにか?」

 変声期に入りかけたかすれ気味のソプラノボイスが脳に到達した瞬間、脳内ホルモンが一気に放出された。全身を包み込む多幸感。
 強烈すぎる多幸感はそれまでうららの中にあった衝動を怒涛の勢いで飲み込み、一気に思考をクリアなものにした。
 浅ましい衝動ではなく、明確な、己の意思でもって、眼の前の少年が、畑野るいが――、ほしい。

「ふむふむ……るい……華咲るい……悪くはありませんわね」

 口内でその名を転がしてみれば、なんと甘美な響きか!
 うららはツインテールを翻し、不敵な笑みを浮かべ、左手を差し出す。

「畑野るい! さん!」

「……はい?」

「あなたには――わたくしの夫になるという特別の栄誉にあずからせてさしあげますわ!」

 心はホットに、されど頭はクールに、華咲うららは畑野るいに求婚する。

「No Thank You」

「ぬ、ぬわんですってー!」

 よもや断られるとは夢にもおもっていなかったうらら。泡を食って問い詰めれば、するとこんな言葉が返ってきた。

「いや、だってまだお互いのことをまったく知らないし……。結婚するにしても、まずはお互いを知るところからスタートするのがスジなんじゃないかな?」

 至極まっとうな意見だった。
 そう――、至極まっとうな。けれど華咲うららにとってはまったくもって新鮮な、そんな意見。
 取りも直さず、お家の都合など関係ない、自分の意思によって決まる関係がこれから始まることを示していた。

「ならばよろしいですわ! このわたくしの魅力で骨抜きにしてさしあげますからお覚悟なさい! ほーっほっほっほ!」

 お腹の奥からこみ上げる熱情に浮かされるまま、高笑いと共にるいに背を向けて去るうらら。
 心はホットに、されど頭はクールな華咲うららは、路地を折れ曲がったところではたと気がついた。

「……わたくしの名前、そういえばお教えしていませんでしたわ」

 かくして、入学式が終わるとすぐさま教師にるいの教室を聞いて乗り込んだのだった。
 ちなみに下着が濡れていたかどうかはトップシークレットだ。
 なお、特に深い意味はないが、その日うららは生まれて初めてベッドの中で夜更かししたのだった。






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