暗闇に染まった用水路。まるで底なし沼のような風情だが、この時期は靴底を濡らす程度の深さしかないことをるいは知っている。
 フェンスが張られた用水路沿いの夜道。カラオケを終えたるいはルキと共に歩いていた。
 ルキはいつも華咲家の使用人に車で送迎してもらっているそうで、るいをマンションまで送ったら呼んで帰るという。
 ふいに駆け出すルキ、街灯の下で立ち止まると、ひらりと身を翻す。
 広がった金髪は街灯の光でキラキラと輝き、天使のような満面の笑みを浮かべた。

「るいるい! 今日は遊びにさそってくれてありがとう! すっごくたのしかったよ!」

「それはよかった」

 交互に歌っていたが1時間もすればるいの持ち歌は尽きてしまった。
 しょうがないのでタンバリンを叩いたりして、ルキの歌に合いの手を打つことにしたのだ。
 するとルキはだれもが知ってる民謡を選曲し始めたり。るいが歌っていた歌を自分は歌えもしないのに「デュエットしよう!」とマイクを渡してきたり。
 あの手この手でるいを歌わせようとハッスルしだしたのだ。そうしてルキを楽しませるつもりのカラオケが、終わりのほうには半ばるいへの接待カラオケと化していた。
 おもうところはあるものの、ルキに楽しんでもらえたのならまあそれでいいだろう。
 ルキに追いつくと、ふたたび肩を並べて歩き始める。「ねえ、るいるい」。それは何気ない調子の声だったから、るいもまた「なに?」といつもの調子で応えた。

「きょうのお昼、ルキの教室をのぞいてたでしょ?」

「……気づいてたんだ」

「うん。これでも、視線にはびんかんなんだよ」

 電車内での光景を思い出す。常日頃からあれだけの視線を向けられていればそうもなるだろう。

「……ごめんね、るいるい」

「どうして謝るの?」

「だって、幻滅したでしょ?」

「幻滅?」

「クラスで孤立してるなんて、ルキらしくないって、そうおもったんじゃないかな?」

「うん、それはおもった」

「ふふふ、るいるいは正直さんだね! ……ごめんね」

「……ルキらしくないっておもったのは否定しないよ。だけどそれで幻滅なんかしてないし、謝る必要もないよ」

 「でも」とルキはいいかけたが、るいが視線をやればすぐにしゅんとこう垂れた。

「……うん」

 沈黙。さきほどまでの明るい雰囲気は完全に霧消してしまった。
 ルキは憂いを帯びた横顔すらも絵になっていて――、それがなんだかるいを無性にやるせない気もちにもさせた。

「今日ルキの教室に行ったのは、うららから様子をみてきてほしいってたのまれたからなんだ」

「……! そう、なんだ。かくしてたけど、バレてたんだね……」

「バレてはいなかったよ。ただ『心配だから見てきてほしい』って、そうたのまれただけ」

 懸念こそ当たっていた。が、クラスで孤立しているなんてうららもおもってはいなかっただろう。
 るいがこうして動かされるまで、ルキは見事に隠し通すことに成功していた。

「どうしてクラスに友だちがいないって、素直にいわなかったの?」

「……だって、うららに幻滅されたくなかったんだもん」

「幻滅なんてするわけないじゃないか」

「……うん、そうだよね。そうに決まってる。……だけど、こわかったの」

 ルキはピタッとその場に立ち止まると、フェンスの前に移動してるいに背中を見せた。

「ルキがアメリカにいたことは話したよね?」

「うん」

「どうしてアメリカにいたのか……、理由はしってる?」

「ううん」

 るいはかぶりを振る。
 漠然と、親の仕事の都合でアメリカにいたのかな程度に考えていた。
 しかし改めて考えればそれは不自然な話だ。ルキだけでも日本に残るのが自然な流れだろう。
 なぜなら彼女にはうららの幼なじみとして選ばれた以上――、役目があるからだ。

「るいるいはもう知ってるかな? ルキにはね、華咲のお家のお世継ぎのスペアをつくるってお役目があるの。ママはそのことをパパにだまってルキのことを聖英に入れたんだけど……、ある日バレちゃった」

 父親は日本人だが10代で渡米してがむしゃらに働き一旗揚げたのだという。
 現地で妻を娶りルキが生まれたあたりで里心がついたらしく、日本法人を作るという名目で帰国したそうだ。
 そんな父親だから華咲から愛娘を守るためにふたたび渡米することにためらいはなかった。
 こうして物心ついたときから暮らしていた日本を離れ、ルキにとっては異国での生活が始まったのだ。
 今度は父親が選んだ名門スクールに入ったという。しかし。

「……アメリカのスクールでもね、じつは友だちはひとりもいなかったの」

「どうして?」

「わかんない……。だってだれも近よってこないし、ルキが話しかけると避けるんだよ?」

 つまり状況的にいえば聖英となにも変わらなかったということだ。
 孤独は家族への依存に繋がり、細部は異なれど経緯としてはるいが家族に依存していったのと同じ流れをたどっていった。
 父親も元々家族サービスには熱心な人物だったというが、渡米後はさらに余念がなくなったという。
 そしてそれに答えるようにルキも甘えた。父親が家にいればほぼ一日中べったりと抱きついていたりしたそうだ。
 だがルキの身体が成長していくにつれて――、父親の見えないところで母親はルキに対して辛くあたるようになっていった。
 やがてルキが二次性徴を迎えると本格的に情緒が安定しなくなり、ふたりきりの時とうとう爆発したのだ。

「ママね、ルキのことがずっとじゃまだったんだって。だから華咲から話が来たとき、よろこんでルキのことを差し出したんだって」

 「女だとわかった時点で堕ろせばよかった!」と、そう憎々しげに叫ぶ"母"だった"女"の姿が、いまも目に焼き付いて離れないという。
 そしていちど箍が外れてしまえばあとは真っ逆さまだった。
 父親がいても母親はルキに対する態度を取り繕うこともできなくなり、家の空気がギスギスしたものとなっていた。
 そんな折、疲れ切った表情の父親からこう問いかけられた。

「聖英にもどりたいか?」

 父親がなにをかんがえていたのかほんとうのところはわからない。
 けれど一面の事実として、父親はルキと母親を天秤にかけて――、母親を選んだのだ。
 あれだけ激昂して辞めさせた聖英にもどりたいかとは、つまりそういうことだろう。

「もどるのなら、パパとママは日本についていけないが……」

 目は口ほどに物を言う。
 選択肢があるようにみえて、もどることを父親が求めていることは一目瞭然。
 自分が両親から捨てられたことを、ルキはハッキリ悟った。

「でもね、そのとき実はうれしかったんだ」

「うれしかった?」

「ルキもうららのところにもどりたいって気もちがつよかったから」

 ルキから見れば渡米してからなにもかもがおかしくなったのだ。
 日本にいる頃はたくさんの人に愛されて、なにより親友のうららとケイがいつだって側にいた。
 華咲家からみれば世継ぎを生むための母胎であったとしても、そこにはたしかにルキの居場所があったのだ。
 父親に対する愛情がそれを口にすることを憚らせていた。だがこうなれば隠す必要はない。

「だからパパに『もどりたい』って、そう答えたの」

 父親は「わかった」と、なにもかも諦めたような顔で了承したという。

「それからは、ほんとうにあっという間だった」

 華咲家に連絡を取り付けると同時に、あれよあれよというまに帰国の日取りが決定したのだ。
 帰国。ルキにとってアメリカでの生活はなにもかもが悪夢だった。出国日の空港。
 母親はルキなどいないもののように父親に甘えており、ゲートに向かうルキの背中に向けて、これ見よがしに次の子どもの話などをしていたという。
 あまりにも無残な今生の別れ。寂しさよりも虚しさが去来したというが、それでもルキは前向きだった。

「ねえ、るいるい。初めて会った日のことおぼえてる?」

「うん。たしか日本に来る日付けをまちがえて、それでお金がなくて……」

「あれね、ぜんぶウソだったんだよ」

「え?」

「ほんとうは日本で仲がよかった人たちにあいさつして回るつもりだったの」

 久しぶりにテレビ電話で話した、うららとケイの態度が昔とまったく変わらなかったことも大きかったのだろう。
 日本にもどればまた色んな友だちができる。たのしい生活がもどってくる。そう考えてしまったのだという。

「……だけどね」

 ルキを前にした誰もがよそよそしい態度になったのだという。
 抜群にスタイルのいい身体に整った顔立ち。そしてあざやかすぎる金髪碧眼。
 彼女のかつての知り合いたちはあまりにも完璧に成長してしまったその容姿に気後れしてしまったのだ。

「正直にいうとね、ルキもそういう人たちの気持ちはわかるんだ。だってルキもちいさいころは日本で暮らしてたんだもん」

 だが、かつては自分を受け入れてくれていたはずの人々がいきなりよそよそしくなったのだ。
 それはただ孤立するよりも深い孤独となってルキを襲った。

「ああ、もう、ルキのいばしょはどこにもない。うららのところしかないんだって、そうおもったの」

 きっとうららの中でルキは幼稚舎時代で止まってるはずだから、そのころの自分を意識して振る舞おうと決めた。
 天真爛漫で、社交的で、人気者だった頃の幼い竹上ルキ。だが――、ルキは渡米から向こうまったく友人知人がいなかったのだ。
 親しかった人から拒絶された直近の経験もあいまって、自分というものにまったく自信がなくなっていた。
 果たして受け入れてもらえるのだろうか。たしかにテレビ電話では変わらぬ態度だった。
 けれど、実際に再会したらうららたちもよそよそしくなるんじゃないか。ルキにとってそれは想像するだけでも耐え難いことだった。
 強烈な不安に苛まれたルキは思考力すら失い、籤引市内をふらふらとさまよい歩いた。食事を摂ることすら忘れて、ふらふら、ふらふらと。

「そんなときに会ったのが――、るいるいだったんだ」

「僕?」

「うん。お腹が減って……、意識がもうろうとして……、めいわくをかけたのに嫌な顔ひとつしなくて……、それどころかルキを心配して……、なによりふつうに話してくれたの!」

 長らくすり減るだけだったルキの自尊心が、大きく回復した瞬間だった。

「それでるいるいと話してたら、なんだかだんだんとおなかの奥がぽかぽかして……。うららの旦那様候補だって知ったときは、ルキの居場所はここだったんだって、あらためて自信がもてたの!」

 編入した聖英ではアメリカでのスクールと同じ境遇だった。
 なんともおもわないといえば嘘になるが、昼食時になればうららたちと楽しくおしゃべりが出来るのだからずっと恵まれている。
 家に帰ればいうまでもなくうららといっしょ。うららの両親は普段は仕事で家を開けているが、家にいる時はなにこれとルキに気をかけてくれたという。
 満たされた生活。そんなある日の晩餐、他愛のない会話をしながら食事をしていると、例の言葉がうららの口から出てきたのだった。

『もうご学友はできまして? もしいらっしゃるのなら、たまにはそちらとの付き合いを優先してもよろしいですのよ』

 うららはルキを信頼していた。だから、もうとっくに友だちを作っているとおもっていたのだ。
 理由はなんであれ"そういう風"に振る舞おうと決めたのは己自身。
 うららを騙していたのは事実で、その代償を支払うときがきたのだと悟った。

「なにがあってもうららの信頼にだけは答えなきゃ……」

 それがなくなれば自分には――、ほんとうになにもなくなってしまうから。
 その日を境に、ルキは裏庭での昼食会に顔を出したり出さなかったりするようになった。

「……」

「……」

 沈黙が下りる。
 これまで身にまとっていた虚飾を脱ぎ去った少女の背中は、とても小さく見えた。

「……なるほど、事情はわかったよ」

 その上で――、なにがいえるかといえばなにもいえなかった。
 強いてカテゴライズするならば、るいはルキを遠巻きにした側の人間に位置するからだ。取り立ててなにかすぐれた物を持っているわけでもない、ごくありふれた人間。
 だが同時にるいもルキとさして変わらぬ境遇にあることも事実だった。しかしるい自身はそれをまったく苦に思っていないのだから、余計にかける言葉が見当たらない。
 が、そんなことはどうでもいいことだった。

「ルキ」

「……」

「正直にうららに話して、これからはまたいっしょにお昼ご飯を食べよう」

 問題は極めて単純な話だった。

「でも……」

「それとも、うららのことがしんじられない?」

「……ううん」

 我ながら卑怯な言い種だとは自覚している。
 それでも反応が鈍いのだから、少女を蝕んでいる孤独のトラウマはよほど大きいのだろう。
 「まずありえないことだろうけど」と前置きして、るいは続ける。

「万が一うららに嫌われたとしても――、僕はぜったいにルキをひとりにはしないよ」

 これはきっと世界でただひとり、るいだけがルキにかけられる言葉なのだろう。
 失うものをなにも持たず、それでも華咲うららから格別の寵愛だけは受けている畑野るいだからこそ、説得力をもたせられる言葉。

「……ほんとう?」

 か細く、けれどもすがるような声だった。

「うん」

 るいの返答を聞いて、ようやくルキも覚悟が決まったようだった。
 振り向くといつもの笑顔を浮かべながら、ルキは「わかった!」と答える。
 赤く腫れた目元と、振り返る瞬間に右袖でぬぐっていたことは見なかったふりをした。

(これでよし……、かな)

 ルキには彼女を気にかけてくれるかけがえのない友人がちゃんといる。
 うららならば――、そのことをしっかりと、この孤独に蝕まれすぎた少女に教えてくれることだろう。




 




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