海をわたった王子さま。
いとしの姫君とまた会うために。
海をわたった王子さま。
おつきの従者をしたがえて。
海をわたった王子さま。
いとしの姫君とまた会うために――。
***
小路 綾は図書委員である。
各クラスに1名いる図書委員は、週に一度は図書室の司書をすることになっていた。
いつもなら、みんな綾につきあって図書室にいてくれるのだが――。
「ごめん綾! 弟と妹が風邪ひいちゃってさ、今日は早く帰ってやらないといけないんだよ」
「私はパパとママとお出かけデース!」
「ごめんなさい綾ちゃん。お母さんからメールがあって、帰りがけにお夕飯の買い出しをしてくるようたのまれちゃいました……」
上から順に、陽子、カレン、忍。
にわかに曇りはじめた空の下、裏庭にシートを敷いて昼食を食べているときの事だ。
いつものメンバー全員に別の用事が入っており、図書室委員の仕事には付き合えないと伝えられた。
一応あとひとり残っているが、そっちは忍についていくだろう。あたり前だ。
残念と思う気持ちはあるものの、つきあってもらっている立場だ。ほかに優先すべき事があるならしかたない。
「そう、わかったわ」とせめてあと腐れがないよう笑顔で答えるより先に――、やつは声を上げた。
「じゃあ、放課後はぼくと綾のふたりきりだね!」
瞬間、アリスの小柄な肩を引っ掴む綾。
そのまま忍たちに背を向けると、肩を寄せてひそひそ声で話しかける。
「なにやってるのよアリス……!」
「な、なにって……?」
目鼻の先で困惑に揺れるアリスの碧い瞳。
状況がさっぱりわかっていない様子に、おもわず大声で叱りつけそうになる綾。
静かに深呼吸すると、「……いい?」と努めて冷静にいう。
「ここはしのの買い出しにつきあって、荷物持ちでもする場面でしょう……?」
「も、もちろんシノに声はかけたんだよ……? 『ぼくも手伝うよ!』って……」
一応やるべきことはやっていたらしい。
「ならなんで……」
「でもたいした量じゃないみたいだし……。シノにも『ありがとうございます。けど、ひとりで大丈夫ですよ』って断られたし……」
「ばか!」
はっと口元を押さえる綾。とうとう大声を出してしまった。なんだなんだと周囲から感じる視線。
もともとの綾は恥ずかしがり屋な少女だ。あやうく萎縮しかけたが、隣で小動物のようにビクついてるアリスを見て一気に冷静になった。
そうだ――、今はこのヘタレをどうにかしなければならないのだ。ふたたびひそひそ声。
「そこはしのに強引にでも着いていくところでしょう? こういうところでポイント稼がないでどうするのよ……!」
「で、でも迷惑じゃ……」
「なら訊くけど、しのははっきりと断ったの……?」
「それ、は……」
すこし考えてから、視線をさまよわせるアリス。やはりというべきか、思い当たるフシがあったようだ。
ため息をつく綾。あいも変わらず押しが弱すぎる。
そりゃ押しが強ければ必ずしもいいというわけでもないが、アリスは単に腰が引けているのが丸わかりだから始末に置けない。
「……もう一回、しのに『やっぱり手伝うよ』って声をかけてきなさい。それではっきり断らなければ、OKってことだから」
もっともはっきり断られることなんてないだろうが。
それでこの話は終わりのつもりだったが、アリスは「でも……」とおずおず口を開く。
まだなにか言い訳する気かこのヘタレは――。すっと目を細める綾。怯みつつもアリスは続ける。
「そ……、そうすると綾がひとりきりになっちゃうじゃないか。……さびしくない?」
うかがうように、心配そうな表情を浮かべるアリス。
透き通るような眼差しを向けられて、綾の心臓がトクンと跳ねた。
「ば――、ばか! よけいなお世話よ! いいから早くいってきなさい!」
とっさに大声で叱りつける綾。もう周りの目なんか知ったこっちゃなかった。
***
放課後に図書室を利用しようという生徒はすくない。
試験前ならにわかに活気づくのだが、この時期は片手で数えられるくらいしかいなかった。
ましてや――、視線をチラと右に向ける。窓の先、空には分厚い雲が広がっている。
こんな今にも雨が降り出しそうな曇天じゃ、利用者0でもおかしくはなかった。
裏庭に面しているから運動部の姿が見えないのはいつものことだけど、今日は声すら聞こえない。
しんと静まり返った図書室にただひとり。目の前のカウンターに突っ伏す綾。
(……さびしい)
孤独が身にしみる。
今さら図書室に来る生徒なんていないだろうし、さっさと帰ってしまえばいいのかもしれない。
実をいえば、こうやって真面目に委員会の仕事をこなしてる綾の方が珍しかったりする。
ひどい奴になると、図書室をちょっと見て誰もいなければそのまま扉を施錠して帰ったりするのだ。
それもこんな状況であれば、なおさら綾がいますぐ帰ったところで誰も責めはしない。
綾だってそんなことはわかっている。それでも律儀に時間までいようとする自分は、きっと要領の悪い人間なんだろう。
改めて、いつも好意で付き合ってくれているみんなに感謝の念を抱く。
(みんな……、今ごろなにしてるのかしら)
陽子は弟妹の看病でてんてこ舞いだろう。ぎこちない手でおかゆを作ったりしてるのかも。
弟妹とも知らぬ仲ではない。だからというわけではないが風邪が快癒することを祈るばかりだった。
カレンは両親とお出かけ。また日帰りで海外旅行でもしているんだろうか。意外と国内旅行だったりして。
忍はおつかい。あとで買うものを聞いたら本当に大した量ではなかったので、もう家路をたどっているところだろう。
アリスは忍といっしょ。買い物袋を手に、忍と肩を並べて大宮家へ向かってるといったところか。
「……アリス、か」
つぶやき。誰もいない図書室にやたら大きく響き渡った。
裏庭での一幕を綾は思い出す。
『そ……、そうすると綾がひとりきりになっちゃうじゃないか。……さびしくない?』
ヘタレで押しが弱いくせに、他人への気づかいだけは一人前だからたちが悪い。
自分も大概だが、アリスも相当に要領の悪い人間だと思う。
(やさしい言葉をかける相手がちがうじゃない……)
あの場では綾のことを気にかけるより、どう考えたって忍のことを優先すべきだ。
悲しいことではあるが、世の中にはなんだって優先順位というものがある。
綾にしたって、いつものメンバーの中で陽子がいっとう特別な存在であることは否定出来ない。
なのに何故かざわめく心をごまかすように、カウンターの内側に何冊か置いてある本を一冊手に取る。
背表紙すら見ず手にとったが、このさい暇と気が紛れればなんでもかまわなかった。
カウンターにハードカバーのそれを置く。飾り気はないが、格調高さを感じさせる赤い装丁だ。
「海をわたった王子さま……」
何の気なしにタイトルを読み上げて、ふいになつかしい気持ちになる。
まだ幼い頃、母が寝る前に読み聞かせてくれた童話に、同じタイトルのものがあったはずだ。
それかと思ったが、しかしこんなハードカバーが一冊埋まるほどの文量はなかったと思う。
本を開いて目次を確認してみる。そこには何十篇というタイトルが並び、その中の一篇らしい。
早速お目当てのページを開いてみれば、一行目で当たりだとわかった。
あらすじはこうだ――
――とある国に、優秀で慈悲深く、領民から深く慕われている王子さまがいた。
だれもが認める一角の人物だが、ひとつだけ致命的な欠点があった。女性に対して非常に奥手だったのだ。
いうまでもなく世継ぎを作るのは王族の重要な仕事になる。周りも当然幾度となく女性をあてがおうとしたが、ことごとく失敗。
もはや正統な後継者は望むべくもなく、養子を引き取るしかないのかという話が出始めていた。
そんなある日、離宮にて開かれた社交パーティーに参加した王子さま。
いつもの見慣れた顔ぶれの中に、ひとり見かけたことのない女性がいた。
その女性が振り向いた瞬間、王子さまの全身に雷が落ちたような衝撃が走る。一目惚れだ。
なけなしの勇気を振り絞り話しかけてみれば、穏やかで可愛らしい仕草にますます魅了されていく。
はたから見れば他愛のない会話を交わしただけ。周りの貴族からすれば笑ってしまうほどに清いやりとりだ。
それでも王子さまにとっては夢のような一夜であった。
翌日。うかつにも女性の名前を聞きそびれていたことに気が付き、盛大に嘆く王子さま。
しかしその正体は従者の口からあっさり判明する。海を隔てた先にある隣国のお姫さまだという。
それを知った王子さまの行動は速かった。従者に船を手配させ、隣国へ出向くことにしたのだ。
従者とともに意気揚々と船に乗り込む王子さまだったが、ハイになっていた気分も航海の間に冷静になっていく。
やがて隣国にたどり着く頃には、すっかりいつもの奥手な王子さまに戻ってしまっていた。
もちろん従者としてはこのチャンスをむざむざ取り逃がすわけにはいかない。
あの手この手で王子さまを鼓舞して、なんとかお姫さまを娶らせようと奮闘するのだ。
そして紆余曲折の末、いよいよ王子さまとお姫さまは出会いの瞬間を迎え――
――気がつけば最後のページだった。
パタンと本を閉じる綾。
本そのものはまだまだ続くが、いまはこの物語の余韻に浸っていたかった。
「……ふぅ」
熱っぽい吐息をこぼす綾。いつ読んでも、やはり名作だった。
しかし悲しいかな。成長した今となっては、どうしても物語を見る目に"経験"という名のフィルターがかかってしまう。
この王子のヘタレっぷり――。海をわたったという単語――。どうしてもアリスを連想せざるを得なかった。
きっと自分がアリスを放っておけないのは、幼いころに読み聞かせられたこの作品の影響が大きいのかもしれない。
綾はとっさに空想の翼を広げる。
「王子さまはアリスだとしてー……、お姫さまはもちろん……」
一瞬、ツインテールのノイズが混ざりこんだ気がした。
ブンブンとかぶりを振る綾。もちろん、お姫さまは忍に決まってる。
かつてふたりの恋の行方にやきもきした気持ちを、無意識に投影してしまったのだろう。
となれば、さしずめ自分は王子さま――アリスの従者といったところだろうか。
そう考えると途端にこしゃくな気持ちになってきた。
昔からヘタレな王子さまにふり回される従者が気の毒だと思ってもいたのだ。
だからアリスがヘタれているところを見ていると妙にイライラするのか。さらに納得する綾。
(まあ……)
どうせならお姫さまになりたい気持ちがないといえば、それはウソだ。
物語の王子さまのように頭脳明晰で非の打ち所がない穎才ではないけれど、アリスは決して悪い人物ではないし。
けれど、女の子にはそれぞれ王子さまがいるのだ。綾の王子さまは――、アリスじゃない。
ザー。という音が窓の向こうから聞こえてきた。
「……雨」
とうとう降りだしてしまった。ひどい土砂降り。
雨で濡れる窓に、うっすら映った綾の顔はにじんで見えた。
***
ようやく委員会の仕事を終えた綾は、すっかりひと気のない昇降口で途方に暮れていた。
雨はザーザー降りで、夕闇も合わさって数m先にある校門の影もおぼろげだ。
「どうしよう……」
てっきり雨が降っても置き傘があるから大丈夫だと思っていたのに、ロッカーには影も形もなかったのだ。
こうなったら母に傘を持って来てもらおうとしたが、カバンの中をどれだけ調べてもスマホは見つからなかった。
なんと家に忘れて来てしまったようだ。
(よりによってこんな日に……)
うっかりで済ますにはあまりにもあんまりな有様に、綾の視界がうるむ。
しかし今は泣いてる場合ではないと、どうにか心を奮い立たせる。
ここから取りうる手段があるとすれば、せめてカバンを笠代わりにしての強行軍しかないだろう。
どうしたってずぶ濡れは避けられないが、いつまでも昇降口にいたところでしかたない。
カバンを頭上に掲げると、外へ駆け出すべく覚悟を決める綾。その時、校門の向こうから人影が浮かんで見えた。
傘をさしたシルエット。だれか生徒が忘れ物でも取りに来たのだろうかとかんがえて、ハッとする。
気のせいか、見慣れた背格好だった。「まさか」とおもいながらも、近づいてくる人影から綾は目が離せない。
「よかった、間に合ったんだね」
果たして――、目の前に現れたのは見知ったアリスだった。
改めて忘れ物でも取りに来たのかとおもったが、ほっとした口ぶりから、お目当ては綾のようだ。
「どうして」
わけがわからない。
ただ唖然と口を開く綾に、アリスはうれしそうにほほ笑んだ。
「ほら、この前もいきなり雨が降ったでしょ? それで置き傘を持っていったきり、いつものところに置いてなかったからさ。もしかしたら傘を持ってないんじゃ――、って」
「だから、迎えに?」
「うん」
「しのは」
「もちろん家まで送り届けたよ? それからすぐにここまで来たんだ」
胸が苦しかった。
いいたいこととか、いわなければならないことはたくさんあるのに、そのどれもが形にならない。
ただただ胸の中で言葉と想いとが飽和していて、いまにも破裂しそうだった。
「それでこれが――」
アリスは左手を差し出そうとして、はたとバツが悪そうな表情を浮かべた。
左手には学校カバン。なにがしたかったのかと首をかしげる綾に、アリスは申し訳なさそうに口を開く。
「……ごめん。アヤのぶんの傘、持ってくるのわすれてた……」
***
雨音に混ざって、パチャパチャとふたりの足音が響く。
『家にもどって傘を取ってくるよ!』とアリスから提案されたが、さすがにそこまでしてもらうわけにもいかなかった。
ないものはしかたないからと、ふたりでひとつの傘を共有することにしたのだ。
つまりは相合傘。すぐ隣では、申し訳なさそうに小柄な身体をさらに縮こませるアリスの姿。
「うう……。本当にごめんね、アヤ。まさか傘をわすれるなんて……」
「べつに謝ってもらうことなんて……。こうやって雨に濡れず下校できてるだけで、アリスには感謝してるわ」
綾の正直な気持ちだった。
もしもアリスが来なかったら、いまごろはずぶ濡れになっていただろう。
「……うん」
それでもアリスがしょんぼりしているのは、単に綾の分の傘を忘れたからというだけではないのだろう。
身長差の関係で綾が傘を持っていた。それがアリスの罪悪感と――、コンプレックスを刺激していることくらいはわかっていた。
かける言葉もなく、沈黙が訪れる。雨音。足音。視線の先。連なる街灯が、雨に濡れた歩道を照らしている。
「ねえ」、ふいに綾は問いかけた。
「もし私が先に帰ってたら、とか、考えなかったの?」
「もちろん考えたよ、でも」
「でも?」
「むだ足だったとしても、アヤが濡れずにすんだのなら、それでいいかなって」
そういって向けられたアリスの顔には、まるでてらいというものが感じられなかった。
バカだ、と綾はおもった。どこまでお人好しなんだ、こいつは。
胸にこみ上げる切ないものをなんとか飲み込むと、綾は次の問いかけを口にした。
「しのの家を出る時、なにかいわれなかった?」
綾にはひとつの確信があった。
この土砂降りの雨。都合よく明日は休日。となれば、忍のほうから「今日は泊まっていきませんか?」とお誘いがあったはずだ。
元々大宮家ではアリスをホームステイさせるつもりでいたため、ちゃんと部屋もある。
まさか断ってはいないだろうな――。言外にそんな意を込めた問いかけだったが、しかしアリスの顔は平静そのものだった。
「『帰り道にはくれぐれも気をつけてくださいね。なるべく人通りの多い道をつかって……、知らない人に声をかけられてもついていっちゃダメですよ? とくにお姉ちゃんみたいにきれいな女の人は要注意ですからね? いたずらされちゃいますよ』って何度も念押しはされたけど……、それがどうかした?」
「……それだけ?」
「うん」
こくりとうなずくアリス。
およそかくし事とは無縁の少年だ、ウソではないのだろう。
本当にお誘いはなかったということか。
「……そう」
いささか信じられなかった。
あのアリスに対して過保護な忍が、こんな日にひとりで帰すわけがないと思っていたのに。
「あ、そうそう」とアリスは続ける。
「いま使ってる傘。これ、シノに借りたんだ」
いわれて綾は納得する。
下校時にアリスは傘を持っていなかったから、仮にアリスの傘なら折りたたみ式になるはずだ。
けれどいま使っている傘はふつうの――、それもアリスがふだん使っている物より幅広で、幾分お高そうな黒い傘だった。
「玄関でね、『お父さんの傘です。これならきっと濡れませんよ』ってわたされたんだよ」
「傘をさして濡れるなんて、おかしいよね」とほほ笑むアリスだが、綾は心臓を鷲掴みにされた気分だった。
アリスはきっと、それを忍のいつもの天然ボケだとおもっているのだろう。
だが待て、結論を急ぐには早い。綾はアリスに訊ねる。
「しのに、私を迎えに行くことは話した?」
「話してないよ」
ハッキリと、綾はこんどこそ確信した。
(しのは、わかっていたんだわ)
アリスが綾を迎えに行くつもりだということを。
本当はアリスを引き止めたかったくせに――、アリスの気持ちを優先したのだ。
綾の口は気がつけば動いていた。
「アリスは、しののことが好き?」
「もちろんだよ!」
唐突な質問にも関わらず、アリスはためらうことなく答えた。
泣き出したいような、怒り出したいような、自分でもわからない衝動に綾は駆られた。
どこまでもお人好しで、どこまでも一途で、どこまでも不器用な、ふたり。
堪えるようにぎゅっと傘を握り締めると、そっとゆるめる。
「そう」
さり気なく肩を寄せるが、アリスは気にした素振りも見せない。それでいいと、綾はおもう。
***
海をわたった王子さま。
いとしの姫君とまた会うために。
海をわたった王子さま。
おつきの従者をしたがえて。
海をわたった王子さま。
いとしの姫君とまた会うために。
私はあなたの従者。
いとしの姫君にはなれないけれど――、せめておそばに。
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