深く、息を吸った。
晩秋の冷えた空気が肺を満たすが、胸の火照りを余計に意識させるだけだった。
「今日こそは」と決意するが、はてその決意は一体何度目だったかなとかんがえて頭を振る。
なにかをやる前にネガティブなことを考えるのは厳禁だと戒めたはずだ。
スイッチが入ると考えなくていいことを考えて勝手に落ち込むのは、自分の悪い癖だった。
「ヘイヘーイ、アリスびびってますかー?」
「ごめんカレン……、ちょっとだまっててくれないかな」
朝の通学路。すぐ隣でにやにやと囃し立てる幼なじみ――カレンをアリスは一瞥する。
もちろん自分をリラックスさせる意図はわかっているし、好意そのものはありがたく受け取るが。
アリスのすげない態度を気にした風もなく、カレンは「あ!」と大声を上げた。ぴょんと飛び跳ねて笑顔で手を振る。
ふわっと広がった長い金髪が、陽光を浴びてキラキラ光って見えた。
「みんなー! オハヨウゴジャイマース!」
釣られるように向けた視線の先。
いつも待ち合わせに使っている公園の時計塔の下には、これまたいつもの三人が立っていた。
アリスもカレンに倣うように、朝の挨拶を交わしていく。陽子、綾、そして――
「――シノ! おはよう!」
黒髪を短く切りそろえた純和風美少女――、大宮 忍はにこりと穏やかにほほ笑んだ。
「おはようございます、アリス。今日もいい天気ですね」
ああもう死んでもいいや。
世界は光に満ち、どこからともなく賛美歌が鳴り響く。シノの輝く笑顔を網膜に焼き付けた状態で死ねるなら、アリスにとってこれほど幸福なことはなかった。
ドンッと脇腹に衝撃。ぐふっと肺から漏れる空気。世界は元の色を取り戻し、鈍痛と共に身体がにわかに右へ傾くと、肘打ちをしたカレンが耳元で冷たくささやく。
「デレっとしてないでさっさとやるデース。このチェリーボーイ」
いろいろと文句をいってやりたいところだが、カレンのいうとおりでもあった。
さり気なく陽子たちの側に移動するカレンを横目に、アリスはキリッと表情を引き締める。
「シノ!」
「なんですか?」
「好きです!」
「はい、私もアリスのことは好きですよ」
その言葉だけであの空の向こうに自らのジェットで飛んでいけそうだったが、しかし冷静になれアリス。まず間違いなく自分の"好き"とシノの"好き"はちがう。
全力の初撃は見事に躱されてしまった。だがいつものことだと、アリスは気力を振り絞って二撃目を放つ。
「そ、そうじゃなくて……、ぼくとお付き合いしてください!」
「? おかしなアリスですね。放課後はいつもみんなで一緒じゃないですか」
「あの、ね? ぼくがいってるのはふたりきりで……」
「私とふたりきりでどこかにお出かけしたいんですか?」
「そう! その通りだよ!」
小首をかしげるシノもかわいい。「お付き合い」の意味も盛大に勘違いしているようだが、あえてアリスは肯定した。
ひとまずは形だけでもデートができる。手に汗握って前のめりになるアリスに、しかしシノはほほ笑みを浮かべた。瞬間、アリスは『あ、終わった』と直感した。
「でも――、みんないっしょのほうがもっと楽しいとおもいますよ?」
シノからパアーッと後光が射しているのを、アリスはたしかに見た。菩薩が如き穏やかで慈愛に満ちたほほ笑み。
「だから、みんなでお出かけしましょう?」といわれてしまえば、それ以上なにをいえるというのか。
そのご威光たるや、アリスが何年もかけて胸の奥でこさえてきた愛情まで根こそぎ浄化されかけたが、せめて負けじと叫ぶ。
「〜〜〜〜! きょ、今日もあなたはうつくしい! まるであの太陽みたいに! いいや! 太陽なんかよりもずっとずっと!」
「うふふ、ありがとうございます。けど、そういう言葉は、将来もっと大切な人にいってあげてください。私なんかにはもったいないです」
「え、あ……、うん……」
ヤケっぱちに放った情熱的な言葉もさらりと躱され、うなだれるアリス。完敗だ。
「うーん……、今日もダメだったかー」
背後から声。のろのろと視線を向けるアリス。
すっかり朝の日課となった、アリスのシノへの告白ショーを遠巻きに眺めていた赤髪の少女――、猪熊 陽子が腕を組んでうなっていた。
「しの本人にはなんの含みもないのがまた残酷よね……」
右隣ではツインテールの少女――、小路 綾が気の毒そうにため息をついている。
「アリスはやることが中途半端だからいけないんデース! シノー!」
左隣のカレンは黄色い声と共にシノへ駆け寄ると、そのまま抱きついた。
「世界で一番アーイ・ラーブ・ユー! デース!」
「はい、私もです!」
キャッキャウフフと百合の花を咲かす日英少女を、うらやましそうに見つめるアリス。
「ああ、ぼくも女の子に生まれてればああしてシノと……」
「いやー、それはないんじゃないかなー」
「どうしてかしら……、いつもカレンに出し抜かれて嫉妬してる姿が容易に想像できる……」
***
「そもそも――、なんで朝なんだ?」
昼休み。いつものようにアリスと陽子の教室にいつもの面子が集まっていた。
アリスと陽子は通路を挟んで隣り合った席に座り、カレンはアリスに後ろから抱きつき、綾は陽子の机の傍に立っている。
忍がお手洗いに行った隙を突くように、陽子は疑問を口にした。
「ああいう告白ってふつう放課後の教室に残ってもらってさ、ふたりきりになったところでするとか……」
「……陽子。それ、もうやったのよ」
「え?」
きょとんとする陽子に綾は説明する。例によってのらりくらりと躱され、あげくの果てには――
『――わかりました! アリスには好きな人がいるんですね! その方とうまくいくよう、ぜひ応援させてください!』
と応援されてしまったのだ。「誤解を解くのに苦労したんだよ……」と焦燥するアリスに、絶句する陽子。
「まさかしのの鈍感がそこまでとは……。っていうかいつの間にそんなことやってたんだよ! アリス……はまあしかたないよな、フラれた話なんかしたくないだろうし……」
「いや、まだフラれたわけじゃ……」
「ないよー?」と力なく主張するアリスだったが、つづく陽子の言葉にむなしくかき消された。
「綾とカレン! 私だけ仲間ハズレかー!?」
「てっきりカレンが話してるものかと……」
「私はアヤヤが話してるとおもってマシター! ちなみにあれはヨーコが風邪で休んだ日のことデース! アリスのヘタレがいきなり『今日シノに告白する!』なんていいだしたんデース!」
「だからけっして陽子を仲間ハズレにしたわけじゃないのよ」
「そ、そうか。ならいいんだ」
いつもいっしょだから、自然とあらゆる情報は共有されてるものだと錯覚してしまったようだ。
わいわいじゃれあう陽子たちを横目に、アリスはおもう。
(ぼくも気をつけないと……)
親しい仲だからこそ、なおさら情報のホウレンソウは大事にしなければならない。
言葉にしなければ伝わらないものは確実に存在するのだ。言葉にしても伝わらないシノもいるが。考えて憂鬱になるアリス。
「で――。アリスがフラれたのはわかったけど、それがどうして毎朝の告白劇につながるんだ?」
「アリスはシノの前じゃ弱々のヘタレになりマース!」
「しのがいつもの鈍感を発揮したら、これさいわいにと現状維持のために逃げを打ったんじゃないかっておもったのよ」
「だから今度はふたりきりじゃなくて私たちの監……目の前で告白させることにしたんデース!」
「なあ、綾もカレンもさっきからなんかアリスにキツくないか……?」
頬を引きつらせる陽子に、アリスは静かにかぶりを振った。
「いいんだよヨーコ。これはアヤとカレンなりの激励なんだ。シノをふり向かせるためなら、ぼくのちっぽけなプライドなんて……」
アリスとしては当然ベストを尽くしているつもりだが、結果が出なければ意味のないことも理解している。
そもそもおもいっきりふたりを巻き込んで助言までもらっておいて結果を出せないのだから、なにを反論できようか。
「ふっ……」と遠くを見つめるアリスに、陽子は「くっ……!」となにかをこらえるように目頭を押さえる。
「アリス、私だけはおまえの味方だからな……」
「ありがとう、陽子……」
熱く見つめ合うアリスと陽子。いささか演技過剰なふたりだった。
ぎゅーっと、なぜだかカレンの抱きしめる力が強くなる。っていうか首が締まってる。「ぐえっ」ともだえるアリス。
「その意気やよしよ、アリス! まったく成果は出てないけど!」
「ま、プライド捨ててもヘタレはヘタレってことデスネー」
「こうなったらもう、滝行でもやらせて精神鍛錬させた方がいいのかしら……?」
「聞くところによればバンジージャンプがいいらしいデスヨ! どこかの部族じゃ成人になるためのイニシエーションらしいデス! スリルを乗り越えることで度胸と思い切りがつきマス!」
「そうだ。ふたつ合わせて縄をつけて滝から飛び降りてみたらどうかしら。これなら効果も倍よ!」
「縄を外せばもっとスリリングデース! 今度パパにお願いしてビクトリアフォールズ※に連れて行ってもらいまショウ!」
※世界三大瀑布のひとつ、ビクトリアの滝とも。他のふたつはナイアガラの滝、イグアスの滝。
殺す気か。
だが当人ら――、すくなくとも綾は本気で事態を打開すべく考えてくれている様子だ。
目の前で着々と練られていくアリス殺人計画。しかし返す返すもアリスに反論の余地はない。
というか首への締めつけでそれどころではなかった。そろそろ酸欠で視界がぼやけてきた。
あわててフォローしてくれる陽子は、やはり人がいいのだろう。
「おまえら本当にひどいな!? わ、私はアリスはアリスなりにがんばってるとおもうぞ? うん」
「あ、ありがとうヨーコ……」
ふたたび熱く見つめ合うアリスと陽子。
ぎゅーーーっとますます強くなる首の締めつけ、「ぎ……ぎぶ、ぎぶ……!」と窒息しかけるアリスに、カレンは「ふん」と鼻であしらう。ようやくゆるめられる締めつけ。
「ヘタレはヘタレデース。だいたいアリスは中途半端なんデスヨ! 本気でシノを落とすつもりなら、もっとほかにやるべきことがあるはずデス」
「ね、涅槃が見えた……って、ほかにやるべきこと……?」
死の淵から生還したアリスは、呼吸を整えつつ眉をひそめる。カレンは虚空に向けてビシッ! と人差し指を突きつける。
「とっとと押し倒してキセー事実を作っちまえばいいんデース!」
「カレン!?」
過激な発言にぎょっとする陽子。あごに手を当てて思案顔になる綾。
「どうかしら……。しのの性格的に押し倒されてガッツリヤラれてもひょっこり起き上がって『アリスったら欲求不満だったんですね! そうといってくれたら
いつでも手伝ったのに……。あ、私の身体はどうでした? すこしは満足していただけましたか?』って逆に相手を気づかってしまいそうな……。アリスもハッキリ訂正できないで、『今日はだいじょうぶですかアリス? お手伝いしましょうか?』『う、うん……。お願いします』なんて、そのままずるずると"手つだってもらう"だけの関係を続けることになったり……」
「あー……。たしかにそれはありえマスネー……」
深刻にうなずきあう綾とカレン。陽子が吠えた。
「ありえないよ!? おまえらマジでしののことどんな目で見てるんだ!? っていうか綾! 自分がなに口走ってるかわかってるか!?」
陽子のツッコミに「あ……」と顔をまっ赤にしてうつむく綾だが、乙女ぶるにはもういろいろ手遅れだった。
そしてアリスの脳内もまた綾に負けず劣らずの桃色に染まっている。こっちもいろいろ手遅れだ。脳内をめくるめく官能的なイメージに、頭をくらくらさせる。
「シノが押し倒され……手伝った……手つだ……手で……」
「アリスも帰ってこい!」
陽子の一喝にハッと正気を取り戻すアリス。
「ぼくはしょうきにもどったよ!」
「いや、それダメなやつだろ」
冷静なツッコミを入れる陽子。ふいにカレンは意地の悪い笑みを浮かべる。
「むふふー。アリスみたいなピュアボーイ気取りほど実はむっつりと相場は決まってマース! ほれほれー、私のが背中に当たってマスヨー」
「や、やめてよカレン……」
むにむにと背中に押しつけられる2つの柔らかい感触に、アリスは不覚にもドギマギしてしまった。
力なく抵抗するアリスに、カレンはなんだか楽しそうな様子でさらに押し付けてくる。
「おやおやー、どうしたんデスカー? もっと抵抗してもいいんデスヨー、このむっつりボーイ」
「う、うう……」
服の上から見る限りあまり大きくないと思っていたが、どうやら着痩せするタイプのようだ。
忍以外の異性、それもよもや"兄"妹のように育った幼なじみに誘惑されそうになるとは――、アリス・カータレット一生の不覚だった。
その様子を見て叫ぶ綾。
「不潔よ!」
「うん、いまの綾にだけはいわれたくないとおもうぞー」
陽子の生暖かい眼差し。綾はごまかすように「と、とにかく!」とツインテールをなびかせて続ける。
「さすがにしのの鈍感さは異常よ。こんなわかりやすいアリスを前にして気づかないんだから」
「たしかになー……。かといって私らがやれることは一通りやっちゃったみたいだし……。これは――、いよいよ我が社の相談役をたよる時がきたか」
「イサミですネー!」
ひゃっほーいと跳びはねるカレン。ガタンと椅子が小さく揺れる。
人に抱きついたまま飛び跳ねないで欲しいとアリスは眉をひそめるが、もちろんカレンはどこ吹く風だ。
しかし――、アリスは難しい表情になる。
「イサミに相談か……、うーん……」
「どうしたアリス? なんか不都合でもあるのか?」
眉をひそめる陽子に、アリスは粛然とした様子で答える。
「いまからお義姉さんをたよるのはちょっと申し訳ないっていうか……。ほら、結婚したら親族になるわけでしょ? こう家族ぐるみの付き合いとかも増えて、子どものこととかでお世話になることもあるだろうし……」
「よーし、じゃあこまかい段取り決めるぞー!」
***
というわけで放課後、アリスはひとり大宮家を訪ねていた。
忍は陽子たちに連れられて、いまごろは駅前の商店街をうろちょろしているところだろう。
大宮家の居間。長い足を組んでゆったりソファーに座る大宮勇の眼下、床の上にちょこんとアリスは正座していた。
いつも浮かべている飄々とした笑みと共に、イサミはいう。
「そんなところじゃなくて、隣に座ればいいのにー」
「だめだよ。ぼくはお伺いを立てる立場なんだから、これくらいの礼儀は尽くさないと……」
「まあ、私としてはかわいい男の子にかしずかれて悪い気しないからいいけどー。あ、ジュースちょうだい?」
「どうぞ!」
「へへー」と両手に持っていたグラスを掲げるように差し出すアリス。「ありがと」と勇は受け取ると、ジュースを飲む。
白い喉が上下するのを見届けると、アリスは早速とばかりに本題へ入ろうとする。
「それでイサミ……、さっきの話なんだけど……」
「えーっと、どうすればアリスの身長がいまより伸びるか、って話だったかしら」
「うん、そうなんだ。せめて忍と同じくらいの身長になりたくて、牛乳は毎日飲んでるし早寝早起きもこころがけ……ってちがうよ!?」
「そういうノリのいいところも好きよー」
なんだかんだと、イサミはアリスのことを可愛がってくれている。
だからイサミのことは好きだが、こういう少しいじわるなところはもうちょっとどうにかならないかと思う。
もっとも、ふふふー、とほほ笑む姿があまりにも蠱惑的でおもわず毒気を抜かれてしまうのだが。
こういうのもなんだが、アリスの周囲は容姿に恵まれた人物ばかりだったと思う。幼なじみなんか外見だけならまちがいなく美少女の部類だ。
だから美人は見慣れているつもりだったが、イサミのように男女問わず骨抜きにしてしまう――、魔性を持つ美人は初めてだった。
「それで、忍の鈍感をどうにかしたいって話だったかしら」
「……うん」
「正直にいわせてもらえば――、矯正するのは難しいでしょうね」
「それは……、イサミでも?」
「むしろ私だからこそ、かしら」
きょとんとするアリス。忍に関することでイサミに不可能があるなんて、青天の霹靂だった。
イサミは謎な笑みを浮かべると、右手に持ったグラスを見つめながら答える。
「そもそも、ね。忍があんな風になったのは、私のせいなのよ」
「え?」
「ほら、私って美人だしスタイル抜群で完璧でしょ?」
「う、うん……」
否定する余地はなかった。なにせ現役のモデルという客観的な事実もある。
それがどうして「私のせい」なのか、アリスは眉をひそめた。
「ふたつ並べば、どうしても比較されてしまうものなのよ。物でも、人でも、ね」
いつも飄々としたイサミの顔に、一瞬だが物憂げな陰が差してみえた。
「忍は昔からのほほんとした娘だったから、そういうものだとあっさり受け入れてしまったの」
そして悲しいかな、アリスにはイサミのいわんとしていることがよくわかってしまった。
幼なじみのカレンが華やかな美少女であるがゆえに、隣を歩くアリスはいつだって比較の目に晒されて生きてきたのだ。
「どうしてあんなチビが」といった陰口は、やっかみ混じりとわかっていても自分の風貌にコンプレックスを抱かせるには十分で――。
殊に幼いころのアリスはよく女の子にまちがわれていた。だからカレンとは"同性の立場"で比較されることも数多く経験してきた。
それが決して心地のいいものではないことも、アリスはよく知っている。
「あとはあの通りマイペースにやってきたせいで、異性からどう思われているかなんて考えたこともないんじゃないかしら。あるいは――、考えないようにしているか」
サイドテーブルに空のグラスを静かに置くイサミ。
「あなたから見て、忍はどう?」
「美人だとおもう」
ウソ偽りのない本音だ。
「わかってるじゃない」というイサミは、こころなし誇らしげだった。
「顔の造作はわるくないのよ。姉の贔屓目を抜きにしても、あの娘はもう5年……いいえ2年もしたら化けるんじゃないかしら」
目鼻立ちはまず間違いなく整っている。
本人が気にしているように華やかさには欠けるかもしれないが、代わりに柳のようなたおやかさがあった。
おだやかな所作におっとりとした雰囲気は、まさに大和撫子というべきか。
いまは突飛な言動も多いが、歳を重ねて精神的に落ち着けば、これほど結婚相手として理想的な女性はいないといわざるをない。
圧倒的な忍のポテンシャルに震えるアリス。現状でも完璧だというのに、さらに進化するというのか。ゴクリと生唾を飲み込む。
「周りの男たちもそのころになってようやく騒ぎ出すわよー。いまとは比べ物にならないくらい競争倍率も上がるはず」
「……」
瞬時に情景が脳裏に浮かんだ。いまよりも少し大人びたシノに纏わりつく男たち。
胸の奥がムカムカする。膝の上に乗せた両手をぎゅっと握りしめる。
お前らみたいなぽっと出にシノのなにがわかるっていうんだ。ぼくはずっとずっとシノのことを――
「――ちゃんと、そういう顔もできるんじゃない」
「……え?」
目の前に膝立ちのイサミがいた。いつの間にかソファーから下りていたようだ。
イサミはそっと両手でアリスの顔を包み込むと、親指で拭う。自分が涙目になっていたことにここで初めてアリスは気がついた。
やさしい光をたたえた眼差しで、イサミはアリスの瞳を覗き込む。
「忍のことが好きなら、その気持ちは絶対にわすれちゃダメよー。終わってから後悔しても遅いんだから」
そういって、イサミはアリスをぎゅっと抱きしめる。
いつか嗅いだことのあるやさしいニオイに、ああやっぱり忍と姉妹なんだなと、ぼんやりおもった。
***
左右に連なる街路樹はすっかり赤く色づいていた。
夕闇に染まった並木道を、アリスはとぼとぼと歩いている。
大宮家からの帰路。勇との会話は、とりもなおさずアリスに現実を再認識させた。残された時間はすくない。
来年になれば高校3年生。いやでも進路について考えることになる。
両親からは「アリスの好きなようにすればいい」といわれているが、内心イギリスにもどってきて欲しいと思っていることくらい分かっていた。
日本は好きだ。さりとて生まれ故郷を捨てて骨を埋めるだけの覚悟があるか問われれば――。だから原点に立ち返るべきだと思った。
そもそも自分はどうして日本に留学してきたのか。日本の文化をもっと深く知りたい、どうしてそう思ったのか。
答えはとっくに出ていて、自分がやるべきこともとっくに理解している。つもりだった。
(そう、"つもり"だったんだ)
降り積もった落ち葉をカサリと踏む。視線を落とせば、故郷で見たそれと微妙に異なる色合いの紅葉。
そして日本国内においても、日照時間に大きく差があったという去年と今年では色合いがだいぶ異なるのだろう。
同じ木だって風土が変われば葉っぱの色は変わる。こんなあたり前のことすら、アリスは今までかんがえないようにしてきた。
いつまでも"忍が求めるアリス"で居続けたかったから。いつまでも――"アリスが求める忍"でいて欲しかったから。
つまるところ、アヤとカレンはアリスのことを正しく理解していたのだ。理解した"つもり"になって、なにかやった"つもり"になって、逃げを打ち続けてきたのだ。
言葉にしなければ思いは伝わらない、だが思いがともなっていない言葉が伝わるわけもない。
アリスの足は、いつしか自宅とは逆方向へ向かい始めていた。
***
「ヨーコー! あややー! シノー! オハヨウゴジャイマース!」
「おーう、おはようカレン」
「おはよう、カレン」
「おはようございます、カレン」
すがすがしいほどの秋晴れだった。
いつもの朝。いつもの公園の時計塔の下でいつものようにカレンを迎え入れた陽子は、しかしいつもとちがう光景に不思議そうな表情を浮かべる。
「あれ、アリスはどうしたんだ?」
まったくもって珍しい光景だった。いつもいっしょにいる金髪コンビの片割れがいない。
そしてこれまた珍しく、どこか不機嫌そうな様子でカレンはいう。
「昨日の夜アリスから電話があって、今日はひとりで先に行ってくれっていわれマシター。どこかに寄ってから来るみたいデスヨ?」
「どこかって……、カレンにも教えてくれなかったの?」
意外だといわんばかりの綾に、カレンは思い出したようにプンプン怒り出した。
「そうなんデース! 何度も訊いたのにおしえてくれなかったんデスヨ!? アリスのくせに生意気デス! ……あ、ちなみに「急いで来るからちょっと待っててほしい」っていってマシター。めんどうくさいから先に行っちゃいマセンカ?」
「いやいや、そこは待ってあげようよ……」
カレンの容赦無い提案に陽子は力なくツッコミを入れる。忍もまた人差し指を立てて諭すように口を開いた。
「そうですよカレン。私たちが先に行ったことに気づかないで、放課後までここで待ってたらかわいそうじゃないですか」
「しのはしのでアリスをなんだとおもってるんだ……?」
忠犬ハチ公かなにかだろうか。「あれ、意外としっくりくるんじゃね?」と思ったところで、陽子は頭を振る。
いかんいかん、なにを想像しているんだ。たしか にからすちゃんに着けられた犬耳のウイッグは似合っていたが、そういうことじゃない。
すくなくともハチ公は飼い主の職場まで出向いたりはしなかった。その分だけアリスのほうが利口だ。
……って、だから犬扱いしちゃだめだろと煩悶する陽子の隣で、「あ」と綾が声を上げた。
「待たなくてもよくなったみたいよ」
声の先に視線を向けると、アリスがこちらに向かって歩いてきていた。
右手に学校カバン。左手には――
「――花束?」
***
陽子たちと通り一遍のあいさつを終えたところで、アリスは忍の前に立った。
心臓の高鳴りは、すでに過去前例のない速度に達している。
「シノ」
「おはようございます、アリス」
にこりとほほ笑む忍。さらに加速するアリスの心臓の高鳴り。落ち着けと懸命に自分へ言い聞かせる。
忍の視線がアリスの左手へ移動すると、「わあ」と瞳を輝かせた。
「きれいな花束ですね! どうしたんですか?」
紙に包まれた赤と白の薔薇。テューダー・ローズ。
それが英国人にとってなにを意味するか、きっと忍は知らないだろう。しかしそれでも構わなかった。
カバンを足元に落とすと、両手で花束を持ち上げて――、小首を傾げている忍に差し出す。忍のほうが背が高いので、半ば掲げるように。
声が震えていないことを祈りながら、昨晩から何度も頭のなかで練習したその言葉を口にした。
「ぼくと――、結婚を前提におつきあいしてください!」
勇の見立てた通り、忍が男性からどう思われているか考えないようにしているのであれば、退路を断ってしまえばいいというのがアリスの結論だった。
そしてそれはアリス自身の退路を断つということでもあり――。正真正銘、アリス・カータレットにとって一世一代の勝負だった。
固まっていた忍だが、ようやくといった様子で声を上げる。
「冗談じゃ……」
「ないよ」
「……です、よね。アリスがこんな冗談、いうわけないですよね」
忍はぎこちない笑みを浮かべると、瞳を伏せる。
沈黙が落ちる。その場にいる誰ひとりとして言葉を発しない。発せない。周囲から伝わってくる緊張感。
対照的にアリスの心は落ち着いていた。賽は投げられた。であれば、あとは腹を決めるしかないのだ。忍から瞳をそらさず、答えを待つ。
ぽつりと、忍はつぶやいた。
「わからないん、です」
うつむきながら、ぽつりぽつりと続ける。
「昔から、男の人はみんなお姉ちゃんのことだけ見ていましたから。私に興味を持つ人なんかいるわけないって、そう思ってて」
今まで見せたことのないさびしげな表情。けれど、口調はまるで世間話しているように穏やかで――。
そのアンバランスさが、これまで大宮忍という少女が抱えてきたものの根深さを表しているようにアリスは感じた。
そして悲しいことに――、イサミの見立ては正しかったのだ。
「たまに声をかけてくる男の人も、お姉ちゃん目当てで……」
忍が言葉を濁した。何か。言葉に出来ない何かがあったのだろうか。
想像しかけて、それがアリスの立場では下衆の勘ぐりにしかならないと自覚してやめた。
この場で追求すべき事柄でもない。だが――、どうしても考えてしまうのだ。
たとえば忍が何かひどいめに合わされて男性不信なのだとすれば――、自分に何ができる?
「だから男の人に告白されるなんて。私にはきっと、縁のないことなんだろうなって。ずっと、そう思ってたんです」
徐々に下がっていく花束。忍がつぶやくたびに身体から力が抜けていく。
つまりは――、忍にとって自分は恋愛対象として意識されたことすらなかったのではないか。
これまでアリスといっしょにいたのは、童顔ちんちくりんで男らしさがなくて金髪だから、単に付き合いやすかっただけだったのだろうと自嘲する。
一世一代の勝負は不発。いやそれどころか、忍の傷跡を開くようなマネをしてしまったのかもしれない。
自己嫌悪と無力感に苛まれるアリス。
「だけど」
ふいに花束が持ち上がった。忍が腰をかがめて花束を受け取ると、愛おしげに胸元に抱いたのだ。
呆然と見つめていたアリスだったが、ここで初めて、忍が頬をほんのり赤く染めていることに気がついた。
どこか恥ずかしそうに、はにかみながら続ける。
「アリスといつまでも一緒にいられたら素敵だなって、ずっとずーっと、そう思ってました!」
そういって忍が浮かべた笑顔は、胸に抱いた花にも負けない――、花よりも見事な笑顔だった。
もしや夢を見ているんじゃないかと、笑顔に見惚れながらアリスは思う。
同時にはたと気がつく。『ずっと』ということは、じゃあ自分とシノは最初から――。
「不束者ですが、これからよろしくおねがいします、アリス」
ぺこりと頭を下げる忍、笑顔に見惚れていたアリスもあわてて頭を下げる。
「こ、ここここここちらこそ! これからよろしくおねがいします!」
「いえいえこちらこそ……」
「いやいやいやぼくのほうこそ……」
「いえいえいえいえこちらこそ……」
「いやいやいやいやいや……」
「いえいえいえいえいえいえ……」
***
ぺこりぺこりと頭を下げ合うアリスと忍。それを陽子は苦笑とともに見つめている。
幼なじみの陽子が見立てた限り、忍がアリスに対して友情以上の感情を抱いていることはまずまちがいなかった。
内心やきもきしていただけに、ようやくふたりの想いが通じたことに心底ほっとしていた。
ただ漠然と――、この告白でなにかが変わってしまうのではないかという不安もあったが、それも目の前のふたりをみれば杞憂に過ぎなかったようだ。
「ははは……。まったくなにやってんだかふたりとも……、って綾!?」
「よがっだわねえ……、ふだりとも……」
すぐ右隣では綾がボロ泣きしていた。「ど、どうしたんだよ」と狼狽する陽子に、綾はつっかえつっかえ答える。
「だっでぇ……、アリスはしののだめに海までわだってぎだのよ? 何年もがげで、ようやく結ばれたんだっておもっだら……」
感極まったのか、綾はとうとう両手で顔を覆ってしまった。
海を渡っての恋愛――。たしかに時代が時代ならちょっとした大河ドラマが出来上がってしまうかもしれない。
だからどうしても思いを遂げさせたかったのか。
綾がアリスに対してキツく当たっていたのは、自分たちの中で特に感受性豊かな彼女らしい理由だったのかと陽子は納得する。
「ま、なんにしても――。これにて一件落着ってところかな」
「よかったな」と、同意を得るように左隣のカレンへ視線を向ける陽子。
幼なじみの幸せを祈るが故にキツい言葉をかけていたのであろう彼女もまた、ほっとした様子でいるはずだ。
いつものような天真爛漫を絵に描いた笑顔で「よかったデース!」と喜ぶ姿を想像して――、陽子は息を呑んだ。
「だからいったんデース――。やることが中途半端だ、って」
それは果たして、誰に向けた言葉だったのか。
平坦な声。カレンはまるで凍りついたような無表情を浮かべている。
痛々しいほど冷えきった瞳の奥になにが映っているのか――、陽子にそれを覗きこむ勇気はなかった。
〜あとがき〜
アリス♂が主役!
と見せかけて、実はカレンが主役だったという驚愕のラストです。
つづくかなー。つづけたいなー。
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