第九幕



 炎上する瓦礫の山。その下所々からはみ出ている、瓦礫の下敷きとなった兵士達の手足。
 赤黒い染みが積み上げられた瓦礫を彩り、鮮やかな炎の色と相まり絶望的なコントラストを演出する。

 そしてそれら全てを無遠慮に踏み越える戦車と、遅れて駆ける兵士達。
 彼らは何を気にすることなく、瓦礫を、人をそのキャタピラで、足で踏みつけていく。

 ふいに、進軍を続ける兵士達の横で瓦礫が崩れる。
 一人の男が、必死の形相で瓦礫の山から這い出してきた。

 彼は眼前に広がる光景に一瞬動揺したが、すぐに表情を引き締めると、腕を使って這うように前進をはじめる。
 ずるりずるりと失った下半身を引きずりながら、血にまみれ、片目を失った顔を苦痛に歪めつつも必死に前進する。

 男の視界に映るは一つのボタン。
 彼はようやくそれにたどり着くと、最後の気力を振り絞り、そのボタンを叩く。
 そして安堵の笑みを浮かべると、そのまま静かに瞳を閉じた。
 直後男の背後に響く轟音、男の体は戦車の巨大なキャタピラに巻き込まれていく。まるでボロキレのように。

 そんな中、何かがキャタピラの回転から開放され、瓦礫の中へ落ちる。
 それは兵役に付くと同時に支給される軍人証、そこには『軍警察国境警備部所属 クリフ・マーロン』と書かれていた。


I miss you. 9


 鳴り響く警報機の音、喧騒に包まれる明朝のアレクサンドリア城。
 貴族が、学者が、兵士が、将校が、皆一様に城内を駆け回る。

 そしてここ、アレクサンドリア軍統合司令部もまた例外では無く、将兵達は慌てふためいていた。

 幸か不幸か、先の騒動により警戒態勢が敷かれており。明朝と言う本来ならば将兵達が少ない時間帯にも関わらず、
 平時よりも多くの人員が働いていたことにより、今回のような突然の事態にも関わらず情報の収集が比較的スムーズに行われていた。

 そんな喧騒と緊迫感に包まれた統合司令部・司令室の中へ足を踏み入れるベアトリクス。
 彼女に気づき反射的に敬礼をしていく兵士達を通り過ぎ、机越しに情報の一切を取り仕切る一人の将校……自身の副官に声をかける。

「状況は?」

 椅子から立ち上がり、敬礼と共に返答をする副官。

「はっ、警報装置の発信源は軍警察の国境警備隊第一基地になります」

 そう言いながら副官は眼下の机に広げられたアレクサンドリア周辺の地図を指差しながら説明をはじめる。

「第一基地……、魔の森付近の前線基地ですか」

 確認するように呟くベアトリクスへ、副官は続ける。

「近隣にある軍の守備隊基地や、国境警備隊の他部隊、またその他施設から寄せられた情報によりますと、
 第一基地は炎上と共に崩壊、おびただしい数の武装集団がそのままの勢いでアレクサンドリア本国へ侵攻を続けている模様であります」

 地図の上に乗せた、敵に見立てた赤い駒を動かしながら説明をする副官。

「近隣の守備隊や警備隊はすぐさま迎撃に向かったようですが、それらの部隊は現在ことごとく音信不通。
 また敵集団の進行方向にあったとおぼしき施設からも次々と連絡が途絶えております」

 「ここが現在最後に情報が途絶えた地点です」と言い、そこで副官は赤い駒の動きを止める。

「国境付近の少数部隊では時間稼ぎすら出来ない……、と。それで、敵の具体的な数と装備は分かりますか?」
「装備、具体的な数字共にまだ…、ただ、今までの情報を総括すると、最大数万人規模の大軍勢である可能性が……」

 "数万"、その言葉にベアトリクスは弾かれたように視線を地図から副官に移す。
 と同時に気付く、彼女の顔色がひどく悪いことに。
 ベアトリクスが彼女を副官に任じたのは、何事にも動じない肝の太さを買ってのことだった。その彼女が、動揺している。
 ――なるほど、思っていた以上に事態は切迫しているようだ。ベアトリクスは、理解する。

「中将」

 ベアトリクスがそう呼ぶと同時に「はっ」と言葉を返し、副官は沙汰を待つ。

「国境付近に駐留する、軍、及び軍警察全部隊に通達を命じます。
 第三防衛ラインの城郭まで一時撤退、同時に陸軍本隊を前進させ、双方合流の後、迎撃に入るようにと」

 「そして…」ベアトリクスは続ける。

「アレクサンドリア全土に緊急避難警告を発令、城下町内の軍警察には民衆の避難誘導をするように通達を」
「了解しました」

 即座に下士官に命令を下し始める副官、その命を聞き、次々と通信機の操作に移っていく。
 そしてそんな兵士達が忙しく働く傍ら、ベアトリクスもまた己の職務を果たさんと、城内線の電話機へ手を伸ばす。



***



 パン屋の朝は早い。

 まだ日も昇らぬうちから起きだすと、男は前日から寝かせていた生地をオーブンに入れ、火を点す。
 椅子に座ってオーブンを見つめていると、時折、こうしているのが夢のように思えてくる。

 ――かつて、男は兵士だった。
 英雄への憧れから、父親の反対を押し切って騎士団へ志願したはいいものの、敵の分断作戦に合って所属していた部隊は壊滅。
 地獄のような戦場の中、唯一生き残った彼も左腕を失う大怪我をし、病院で療養している間に終戦を迎えた。
 祖国へ帰国したが怪我から軍は除隊。失意のままに日々を送っていると、城下は霧に包まれ、モンスターで溢れる騒動に巻き込まれる。

 避難場所まで逃げる際、残った右腕で背負った父はとても軽かった。
 背中越しからの「儂のことはいいから、お前ひとりで逃げるんだ」と言う声に、初めて己を恥じた。
 手前勝手に生きてきた自分が、その挙句に左腕を失って帰ってきた時も父は怒りもせず、ただただ生きていたことを喜んでくれていた。
 申し訳なさに胸がいっぱいになりながら、それでも必死に逃げ惑っていると、運悪くモンスターに襲われた。
 死を覚悟した次の瞬間、一閃と共にモンスターは上下に分割される。

「無事であるか?」

 かけられた声の先にいたのは、スタイナーだった。
 女王陛下直属である騎士団の長。
 本来ならば雲の上の人物に、思わず恐縮しながら礼を言う。

「あっ、ありがとうございます!」
「気にするな、民の命を守るのは我ら騎士の勤めである」

 そう言って「気をつけて逃げるのであるぞ」とモンスターの群れへ果敢に飛び込むスタイナーを見て、悟った。
 自分は、英雄にはなれない。英雄って言うのは、ああやって他者の為に平然と命をかけることの出来る人がなれるものなんだろう。
 モンスターから逃げ惑い、父親だって満足に守れない俺が、一体どうしてもっと沢山の人を守らなくてはならない英雄になれるのだろう。
 だから、決心する。せめて父親に楽をさせてやりたい。守れずとも、平穏な日々を送らせてやりたい。
 そう思って父のパン屋を継いでから、早3年が経った。

 かつてはあれだけ嫌だと思っていたパン屋だったが、今となってはこれ以外の仕事など考えもつかなかった。
 自分の焼いたパンを美味しいと言ってくれる人々がいることが、たまらなく嬉しい。
 最近めっきり白髪の目立つ親父が、自分の働いている姿に喜んでいるのを見て、本当に継いで良かったと思う。

 母が死んで以来、男手ひとつで己を育ててくれた父。
 きっと苦労もあっただろうに、それでもいつだって自分のことを心配してくれていた。

 彼は、英雄にはなれなかった。
 しかし父親にとって彼は間違いなくただ一人、決して代わりのいない大切な存在だった。
 そして、それは彼にとっても同じこと。

 だから彼は毎日パンを焼く。
 パンを焼いて、人々に笑顔を振りまく。
 それこそが、彼に唯一出来る父への恩返しなのだから。

「あとは嫁さんでも貰えば親父も完全に安心するんだろうがな……」

 呟いて、苦笑する。
 幼い頃から英雄目指して体を鍛え、それを諦めてからはパン一筋。
 根本的なところで女性とは縁が無く、今もまたパン屋の経営だけで手一杯だ。
 日々は充実しているし、別に不満は無いのだけど。

 そこまで考えて、彼は思考を切り替える。
 そろそろパンが焼きあがる頃だろう。

 今日もまた、いつも通りの日々がはじまる。
 そう信じ、オーブンへと手を伸ばした時だった。

 ……ン……カン……

「ん……? なんだ?」

 オーブンへ伸ばされた男の手が止まる。

 どこか遠くから、音が聞こえた。
 微かな音は徐々に大きく、ハッキリと、男の耳へと入っていく。

 ……カン……カンッ……

 何か金物を必死に叩く音。
 それはかつて耳にしたことのある音だった。
 あれは確か、4年前……。

「まさか……!」

 男の顔が強張る。
 あれから一刻として忘れたことのない。
 否、城下に生きる人々ならば決して忘れることの出来ない音。

 ――カンカンカンカンカンカンカンカンッ!

 それは鐘の音。
 城下町の人々へ災厄を告げる鐘の音だった。



 ***



 突然の警報に起こされ、慌てて正装のドレスに着替えてから30分が経った。
 こう言った緊急時における対応では、私は無闇に動かないことになっている。

「……ふぅ」

 椅子に座ったまま、ため息を吐く。
 ハッとして頭を振る。いけないいけない、もっとドッシリ構えていなくては。

 年に数回行われる緊急事態を想定した訓練、緊急時にとるべき行動には慣れているつもりだった。
 けれど、実際にこうして警報が鳴った場合と訓練とでは、やはり感覚が全然違う。
 何もこれが初めてではないだろうに、情けない気持ちで胸がいっぱいになる。

 ――警報を鳴らさねければいけない程の事態が起きたと言う緊張感。
 そしてそれほどの緊急事態に関わらず、こうして座して待つことしか出来ないもどかしさ。
 「いっそ現地まで駆け付けることが出来れば」。時折、そんな衝動にも苛まれる。

 けれどそれは許さない。
 最高権力者である私が安々と椅子を空けるようなことがあれば、それは全体の指揮に差し支えてしまうから。

 何より、私一人が動いたところで出来ることなんて限られてる。
 そうじゃなくたって、人ひとりに出来ることには限度がある。
 だからこそ国があり、組織があり、各部署があり、作業を分担しているのだから。

 ここで私がすべきことは、どっしりと構え、家臣達が万全の仕事を出来るようにすることだ。
 それは私にしか出来ないことだし、結果としてよりたくさんの人々を救えることに繋がるハズなのだから。
 まずはベアトリクスから、或いは他の大臣からの情報を待つ。私がやることは、それからだ。

 けれど、さっきから感じる、言いようの無い不安は何なんだろう?
 胸元に持ってきた右手を、ギュッと握る。

「ジタン……」

 ポツリと呟く。
 せめて、いつも近くにいる彼が今もいてくれたら……。

 ハッとして、再び首を横に振る。
 どうも、今の私は弱気になっているみたいだった。

 ジタンは今、大事なことを成し遂げようとしている。
 彼はこの国を、引いては世界を守る為に戦っているのに、女王としてこの国を背負っている私が弱気でどうする。
 こんなんじゃとても彼に顔向けが出来ない。

 とにかく、私は私の出来ることをしよう。
 片手をグッと握ってガッツポーズを取りつつ、自分に喝を入れる。

 コンコン。と扉を叩く音が聞こえた。
 慌ててバッと手を膝に下ろすと、返事をする。

「ど、どなた?」
「付き人のエズメです。ベアトリクス様の命により参りました」
「ベアトリクスの……? どうぞ、お入りなさい」

 「はっ」と言う挨拶と共に、扉を開くエズメ。
 その先には、人の良い笑顔を浮かべたいつもの彼がいた。


 ***


 ジージー……

(また、ですか)

 壁に設置された電話機。受話器から聞こえる何度目かのその音に、ベアトリクスは形の良い眉を顰める。

 直轄の部隊や各部署には既に命令を終えている。
 あとは陛下へ報告するのみ、なのに、先程から電話が通じない。

 ならばと付き人達の部署に連絡を入れようとするが、これもまた通じない。
 受話器を置くと、ベアトリクスは歩き出す。

「閣下、どちらへ?」
「私はこれから陛下の下へ参ります。あなた達は引き続き情報収集を」

 「了解いたしました」と言う副官の言葉を背に、ベアトリクスは司令室を出る。
 同時に、レンガ造りの通路を駆け出す。その顔に、いつにない焦りの色を浮かべながら。



 ――だからだろう。部屋を出る間際、副官の顔に浮かんだ、歪んだ笑みに気づかなかったのは。



 ***



 中肉中背。癖のある茶色い髪を短く整え。身長はジタンよりも少し小さく。柔和な笑みがトレードマーク。
 物腰は柔らかく、穏やか。品行方正を絵に描いたような人物だった。
 いきなり入ってきたジタンに難色を示す付き人達が多かった中、真っ先に彼のことを受け入れ。
 以来、オフでも付き合うほど仲が良い――これが彼、エズメ・スタンリーの経歴である。

 カツカツと、ブーツが通路の床石を叩く音が響いていく。
 先導するエズメの背中を見つめながら、ガーネットは徐々に違和感を覚え始めていた。

 ――あまりにも静かすぎる。

 城の警報機は4年前、モンスターが街に溢れた事件を契機となって設置された。
 国家の危機においてより迅速にアクションが取れるようになることを目的とされたものであり。
 翻ってみて、警報機が鳴ると言うことはそれだけ火急の事態であることの裏返しであった。

 にも関わらず、この城に漂う静寂は何なのか。
 全ての人間が現場に出払ってる? 考えて、即座にその可能性を切り捨てる。

「どうぞ、こちらです」

 エズメの声にハッと意識を現実へ引き戻す。
 その手で開かれた扉の向こうには、赤い絨毯の敷かれた広い部屋があった。
 何かを発表する時や、誕生日記念公演の鑑賞に使うバルコニーへと続く部屋だ。

 中に入り、バルコニーの前に差し掛かると、不意にエズメの足が止まった。
 バルコニーを向き、ガーネットへ背を向けた状態で。次いで、ガーネットの足も止まる。

 ――ガーネットは出撃する兵士達に激励の演説をするのだと言われ、ここまで来た。
 侵入者へ対する迎撃。それに向かう兵士たちの士気掲揚。
 だというのに。

「……ねぇ、エズメ。どうして誰も居ないのかしら?」

 人も、用意も、あまりに無さすぎる。

 たとえ突貫であろうが、事前にすべての準備が整っているのが当然。
 絶対君主の国家において女王を動かすという事は、それだけの重みがあるのだ。
 すでにベアトリクスが準備したと聞いてここまで来たというのに。これでは話が違う。
 そもそも。

「……ベアトリクスはどこかしら?」

 ガーネットの声は固い。
 もはや現状への違和感は、エズメへの不信感へと切り替わっていた。
 脳裏に響く警鐘。思わず身構える。

 音もなくエズメが振り返った。
 右手を胸に、慇懃なまでに恭しく腰を曲げ。
 バルコニーを、微かに見える街並みを背に、口を開く。
 まるで嘲るように。唄うように。

「女王陛下。これにてお終いであられます」
「え?」

 直後、ガーネットの意識が暗転する。
 最後に視界に映ったのは、いつも浮かべていたエズメの"エガヲ"だった。



 ***



 ――城に得体の知れない連中が紛れ込んでいることは、既に突き止めていた。

 最初にそれを見つけたのは、深夜、城の資料室だった。
 巡回中の兵士の一人が、見慣れない男が忍び込んでいたところを現行犯で取り押さえ、取調室へ。
 翌日、その男の様子がどこか変だと言うことで、ベアトリクスが直接様子を窺った。
 何を問いかけようとも一切答えない。が、強い意志で持って答えないのではなく、かと言って自棄になっているワケでもない。
 その瞳からは感情と言うものが欠落し、まるで生きながらにして死んでいるような、そんな不気味な男だった。
 結局男はこちら側の質問には何一つ答えることなく、牢獄へ送られることとなった。
 男は出された食事に手を付けることも無く、また何を喋ることなく、そのまま獄中で餓死をした。

「餓死までの期間の短さから見て、捕縛された時点で既に長い間食事らしい食事はとっていなかったのでしょう」

 死体を調べた執刀医からの報告により、「困窮した貧民が、正気を失い資料室へと潜り込んだ」と言う結論に至った。
 何にせよ城へ不逞の輩が入り込んだと言う事実を前に、警備体制の大きな見直しが必要となった。
 報告を聞いた女王陛下が貧民の存在に心を痛め、その責務に改めて発奮したのは怪我の功名と言うべきか。

 人々が既に終わった事件として、次の仕事に追われる中、ただ一人ベアトリクスのみ、何か釈然としない物を感じていた。
 死んだ男の瞳が、生気の一切感じられなかったその虚ろな瞳が、どこか心に引っ掛かり続けていたのだ。

 それから半年ほど経った、ある日のことだった。
 プルメシアにいる間諜から、一つの情報がベアトリクスの元へ届いた。

「死人のように無気力な人々が増えはじめている」

 それはおまけのように添えられた一文だった。
 初めベアトリクスはその意味を掴みかね、それだけプルメシアに退廃的なムードが漂っていると判断した。

 だがそれから間もなくプルメシアを訪れた時、わざわざそのような一文を添えた意味を理解した。
 馬車で通りを渡った時に見えた、チラリと街道の左右に立ち、見送る人々の様子に、ベアトリクスは思わず息をのんだ。
 一様に虚ろな瞳を浮かべ、それはまるで死者が列をなしているかのような、異様な光景だった。

 王宮に入れば確かに王を始めとした家臣達は依然変わらぬ応対であった。
 しかしその瞳には、どこか生気のようなものが抜け落ちていた。

 ――異様。何もかもが、異様。
 プルメシアを覆っていたのは、正しく異様そのものであった。

 けれど何よりもベアトリクスが不審に感じたのは、付き人達の様子にあった。
 一部を除き、皆その異様な状況を"平然と受け入れている"のだ。
 ベアトリクスは、事ここに至ってようやく、彼らの瞳の奥に渦巻く物に気がついた。
 この異様は決してプルメシアだけの問題ではないと言うことを、ベアトリクスは知る。

 その後、密かに城内の観察を続ける内、緩やかに、しかし間違いなく、人々がおかしくなっていることに気付く。
 だが言ってしまえば、単に"違和感を覚えた"と言う抽象的な話でしかなく、ベアトリクスに取れる行動は何もなかった。
 一体このことが何を意味するのか、もどかしさと言いようのない不安を抱きながら執務をこなす日々。
 やがて恒例の誕生日記念式典の日を迎え、そして――事件は起きた。

 クジャから齎された情報は、ベアトリクスに多大な衝撃を与えた。
 彼の言葉を全面的に信用するには材料が足りなかった。けれど、否定するにはあまりにも心当たりがありすぎた。
 そしてこのタイミングでこの事態。突然の襲撃に、女王と付き人達への連絡不通。

 彼女は、考える。
 己が抱いていた不安は、今、最悪の形で立証されようとしているのではないか――?

 アレクサンドリア軍司令本部は本館から見て東の分館にあった。
 彼女がさっきまでいた指令室はその館の最上階、3階に位置する。
 ここから本館にある女王の部屋まで、ベアトリクスの健脚であれば走って10分もかからないだろう。
 が、今の彼女には、その10分が惜しかった。

 分館を出て、本館へ繋がる通路に出ると――風切り音が聞こえた。

 それが何かを認識するよりも先に、ベアトリクスの上体は後ろへと反った。
 鼻先を掠める鋭利な光。刃影。
 続く二太刀、三太刀を後退しながらステップを踏んで避けると、間隙を縫って腰の剣を右手で抜き払う。

 鋭い斬撃をバク転で回避する相手。
 アレクサンドリア軍指定の士官服を着たその男は、体を揺らしながら、両手に刃渡り20センチほどの刃が欠けた刃物を握っている。
 長い前髪で瞳は隠れ、真一文字に口元は閉じられ感情は読めなかった。

(我が軍の軍服……そしてこのタイミングで攻撃……。敵の内通者?)

 そして恐らくは、誕生記念公演の日に騒動を起こし、前日捕まえた連中の一派か。
 だがそんなことは今はどうだっていい――陛下の身が危ない!

「ここを女王陛下のおわす城と知っての狼藉か」
「……」

 冷静に、しかし強い口調で問いかけるベアトリクス。男から返答はない。
 セイブザクイーンを両手で構え、油断無く男を見据えている。
 今は一分一秒が惜しい。返答がないのならばと、斬りかかろうとした、その時。

「……ヒュッ」
「……?」
「フヒュッ……ヒュッ……ヒュヒュッ……!」

 呼吸音のようなものを発しながら男は顔を上げた。
 長髪から覗く瞳は瞳孔が開ききり、正気の色は感じられない。しかし、あの瞳には見覚えがあった。
 フラッシュバックする。プルメシア。死者の列。これはつまり。目の前の男は。

 おもむろに男が右手を上げた。身構えるベアトリクス。
 だが、握られた刃物の隙間から見えるそれを見て、ハッとする。
 手入れの行き届いたベアトリクスの茶色い髪。斬撃の刹那、幾らか持って行かれたのか。

 男はそれを顔の上に掲げると――口に入れた。

「女……フヒュッ……女のか……ヒッヒッ髪ッみッみッ!!」
「……醜悪な」

 ベアトリクスの語調には、隠し切れぬ男への嫌悪感がにじみ出ていた。
 咀嚼を終えた男は、再び瞳孔の開ききった瞳――しかしどこか甘い陶酔感に浸った――をベアトリクスに向ける。

「#####################!!!!」

 奇声と共に刃物を振り上げ、ベアトリクスに跳びかかる男。
 ベアトリクスもまた、セイブザクイーンを振り上げ迎撃に出る――



 ***



 ベアトリクスが戦闘を開始したのと同時刻。
 スタイナーもまたガーネットの下へ馳せ参じようと駆けていた。

 ふと、前方に影が見えた。構わず近づき、立ち止まる。それは目算で身の丈2メートルを超える巨漢。
 全身に鎧を着込み、更に身長よりも大きな肩に担ぎ、仁王立ちしている。
 ギョロリと、兜から覗く双眸が、対峙するスタイナーを見据えた。巨漢が口を開く。

「アデルバード・スタイナーとお見受けする」
「如何にもである。して、貴殿は何者であるか」

 無言で斧を振り上げる巨漢。頭上で円を描くように斧を振り回すと、眼前の地面へと叩きつける。
 轟音と共に砕け、陥没する床石。風圧がスタイナーの身体を打ち、飛び散った破片が頬を掠めた。
 一筋の傷。頬から流れる血。しかしスタイナーは微動だにすることなく、目の前の巨漢を見据えている。

「我が名はバイロン! テラが近衛騎士団、副団長である!
 アレクサンドリアが騎士団長、アデルバード・スタイナー。その首、貰い受ける!」



 ***



「ん……」

 意識が浮上する。
 靄がかった意識の中、ガーネットが視線を左に向けると、そこにはバルコニーが見えた。
 ――どうして私はここに? 考えて、瞬間的に意識がハッキリとする。

「――!?」

 身体が動かない。唯一動く顔を下に向けると、身体は椅子に座っている。
 縛り付けられているというわけではない、ならば、魔法か。

『――制圧完了』

 その時、声が前から聞こえた。
 バルコニーを挟んだ向こう側に――エズメの背中。その向こうには。

「……人?」

 決して狭くはない部屋の壁いっぱいを使って、靄が縁どっていた。
 そして靄の中に、何十人もの人々の上半身が映っている。
 そこには司令部の副官、飛空艇部隊のチーフ――、トップでこそないものの。
 各部署において重要な役どころを担う立場の人々が映っている。
 画面の向こうの彼らは、口々に言葉を発していく。

『司令室の制圧完了』

『飛空艇部隊の制圧完了』

『ベアトリクス、スタイナー、両将軍と我が軍の将軍が交戦中』

「了解。それぞれ最善を尽くしなさい。全ては偉大なる祖国のために」

 ――制圧完了? 祖国?
 一体なにを言っているのか分からぬまま、画面が消える。

「あっけない、実にあっけない。作戦開始からものの数十分でこの有様。
 ガイアの大国と言えども、所詮は未開の猿どもが作った国ということか。
 くくく……ははは……ハーッハッハッハ!!」

 部屋にエズメの哄笑が響き渡る。
 怒涛の情報量に混乱しつつも、辛うじてガーネットは口を開く。

「あなたは……誰……?」
「……おや。これはこれは女王陛下。お目覚めになられましたか」

 振り向いたエズメには、もはや慇懃さを隠そうという意思が微塵として無かった。
 口元に浮かぶ笑みは、それまでエズメが浮かべてきた柔和さとは程遠い。
 これがエズメの本性? いや、違う。ガーネットは再度、先ほどよりも瞳に力を込めて、問い詰める。

「あなたは誰?」

 一瞬、虚を衝かれたような表情を浮かべるエズメ。
 しかしすぐに口元に笑みが浮かぶ。それは先ほどよりもずっと深く、好奇に満ちた笑み。

「ほう、お気づきになられましたか。ふふふ……いやはや、これは失礼。
 やはり王族ともなれば、未開の猿とも言えど相応の目を持ってらっしゃるようだ」

 「くくく」と笑う男の姿には、およそ他者へ対する敬意と言うものが無かった。

「この身体はおおよそ……この地の時間軸で言えばそう――1週間前に乗っ取らせていただきました。
 ――あぁ、エズメだったかな? とか言った小僧の魂はすでに消滅済みですので、ご心配なく。
 まぁ本当は消滅させる必要はなかったんですけど。このワタクシが入るのですから、真っ更な状態であるのが当然でしょう。
 大体、猿どもの使い古しを使うだけでも不快だと言うのに……おっと失礼。ワタクシが誰か、という質問でしたね」

 男はペラペラと聞いてもいないことまで喋ると、再び右手を胸に当て、慇懃なほど恭しく腰を曲げた。

「クラーク。ワタクシの名は、クラーク・ジルベルスタイン。
 テラが騎士団において参謀を任されております。以後、お見知りおきを」

 「そして――」クラークは顔を上げる。口元には嘲り。

「――この城を占拠させていただきました」



続く



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