ドロシー・ウェストにはレオナ・ウェストという双子の弟がいる。
 容姿は己とうり二つ、となれば、当然そこら辺の女子よりずっと"かわいい"少年だった。
 "かわいい"という言葉は立派な褒め言葉であり、"かわいい"レオナはまちがいなくそこら辺の男子より秀でた存在だ。
 だというのに、男子連中はそんな単純なことすら理解できず、レオナをいじめるのだ。まったくもって度し難い。
 公園。レオナを取り囲んでからかう男子たちに土煙を上げながら突撃するドロシー。

「なーにやってんだお前らー!」

「げぇっ、ドロシー!」

「び、びびるこたねえ! 女が男に力でかてるわけな……。グワーッ!」

「たっくんがふっとばされたー!」

「今日という今日はもうゆるさないぞ! ぜーいんその使いみちのない◯◯◯を引っこ抜いてやる!」

「ひいぃ、ドロシーならマジでやりかねないから逃げるぞー!」

「逃げんなコノヤロー!」

 おまけにドロシーのことを女だからと見くびり、こうしてあっさり蹴散らされるのである。
 顔も悪けりゃ頭も悪い、ご自慢の力ですら"女の"自分に負けるときたもんだ。
 もはや小学5年生のドロシーにとって、レオナを除く同年代の男子などは、ダニにも劣る存在だった。

「ふん、逃げるくらいならさいしょっからレオナにちょっかい出すなってーの!」

 毒づくドロシーに、気弱そうな声。

「ドロシー……」

「レオナ! だいじょうぶだった? あのクソ野郎どもにひどいことされなかった!? されてたら今からでもおっかけて生まれたことを後悔させてやる!」

「だ、だいじょうぶだよ……。ありがとうドロシー」

「ならいいけど……。レオナもあんまりボクから離れるなよなー。ま、どれだけ離れててもボクが守ってあげるけどさ!」

「……うん。ほんとうに、いつも守ってくれてありがとう。ドロシー」

 胸を叩いて豪語するドロシーに、そういって儚げなほほ笑みを返すレオナ。
 その顔はいつもよりこころなしか翳って見えたが――、ドロシーは気のせいだろうで片付けた。





 ***





 宴会部屋。
 昼からどんちゃん騒ぎしているオッサン達を、部屋の隅から体育座りで遠巻きに眺めるドロシー。鏡を見ればさぞや不機嫌な顔が映っているのであろう。
 ある日、ドロシーとレオナは父に連れられて地元商工会の集まりに出た。会場は居酒屋。仕事の話も一応するが事実上の飲み会である。
 そんなところに子どもふたり連れて行かれたところで、暇を持て余すのは当然の成り行きだった。

「休日なんだからどっかつれてけー、とはいったけどさあ……」

 こんなことなら、いつも通りレオナと近所の公園で遊んでりゃよかった。
 ぶーたれるドロシーだが、そのレオナといえばやけにトイレが長い。
 ま、大きい方なんだろうなーとテキトーに考えていたが、ふと嫌な予感がした。

(……レオナのやつ、もしかして男子トイレに入っちゃったんじゃないだろうな?)

 以前、レオナは男子トイレで変なオッサンにイタズラされかけたことがあるのだ。
 双子の第六感でピンチを察したドロシーが駆けつけ、オッサンをボッコボコにして警察へ突き出したので、その場は事なきを得たものの。
 それからというもの、レオナには女子トイレをつかうようにキツーく言い渡していた。
 これまでは素直に従っていたが、最近はどうしてか男子トイレをつかいたがっている節があった。
 そろそろブラジャーが必要になりそうなドロシーの胸の中で、疑惑が芽生える。
 だいたいトイレに行くのであればドロシーを誘うのが当然だろう。それをしなかった時点でおかしい!
 誘われたけどダルかったので「えー、ひとりで行ってよー」と答えた気もするが、おそらく気のせいだろう。
 これはもう――、確定ではないか! パーカーを翻し襖を開けて宴会場を飛び出すドロシー。
 今日はスカートでなくハーフパンツを履いてきてよかったと、走り出しておもう。もっともスカートを履くことの方が少ないのだが。
 通路を駆け裏口のドアを開いて外に設置されたトイレの前まで一目散に駆けていくと――。果たしてそこには、背の高い男に絡まれているレオナの姿があった!

「レオナになにするつもりだ! この変態野郎!」

 レオナを庇うべく、颯爽と間に割り込むドロシー。
 射殺さんばかりに睨みつけられた男は、ポカンとマヌケ面を晒している。
 右ストレートを顔面に……と見せかけて股間を蹴り上げる必殺のコンボを発動しようとした刹那、背後のレオナが抱きついてきた。

「や、やめてドロシー! この人は……」

「なんでかばおうとするんだよ! まさか……ッ! おまえー! レオナになにを吹き込んだー!」

「だからはなしを聞いてー!」

 暴れるドロシーに、必死で取り押さえるレオナに、ポカンとそれを見つめている男。
 ふいに男が「ああ……」とつぶやいた。なにかを理解したような意味深な声に、ドロシーもおもわず動きを止める。

「……なんだよ」

「お前がドロシーか。レオナから聞いてたとおりの性格みたいだな」

「聞いてたとおり……? なにが聞いてたとおりなんだよおまえー! 気安く名前で呼ぶな!」

「だからやめてー!」

 ふたたび暴れようとするドロシーを、ふたたび懸命に取り押さえるレオナ。
 男はドロシーの態度を気にすることなく、飄々と続ける。

「そんなことはどうでもいいじゃねーか。それより……」

 すっと右手を差し出された。怪訝な表情を浮かべるドロシーに、男は説明する。

「俺は椏隈野シド。レオナの専属バスケコーチになることになったんだ」

「……は?」

 レオナの専属バスケコーチ? この男が? というかどうしてそうなった? わけがわからない。
 あっけに取られて固まるドロシーの右手を取り、椏隈野は一方的に握手を交わした。

「まあ期間限定だけど……。これからしばらくの間、よろしくな」

 そういって椏隈野が浮かべた憎たらしいほどの笑顔を、ドロシーは生涯忘れないだろう。
 そして、次なる言葉も。

「にしてもお前、宴会場で見たときからずーっと不機嫌そうな顔してるな。せっかく可愛いのにそれじゃモテねえぞ」

「んな!? しょ、初対面の人間あいてになんだコノヤロー!」

 騒ぐドロシーを「ははは」と笑い飛ばす椏隈野。
 これが――、ドロシー・ウェストと椏隈野シドの出会いだった。





 ***





 トイレの脇に置かれた自販機の前に移動して、情報交換するドロシー達。
 なぜ椏隈野があそこにいたのか。
 訊けば祖父が商工会に属しているそうだ。居酒屋にやってきたのも祖父の付き添い、ということだった。

「せっかくの休日にお祖父さんの飲み会に着いてくるなんて、どんだけ暇人なんだよwwww」

 m9(^Д^)プギャーと息を吐くように煽る少女、それがドロシーである。
 完全にブーメランに見えるがそんなことはない。だってドロシーは小学生だが、椏隈野は中学生だからだ。
 小学生より中学生が忙しいのは自明の理。部活に勉強に友達付き合いで忙殺されるのが標準的な中学生であるはず。
 だから中学生にもなってプリパラなんかやってる奴らは、そのレールから爪弾きにされた哀れな奴らなのだろうと思っている。
 断じて未だにプリチケが届かないから届いた奴らに嫉妬しているわけではない。ないのだ。
 話が脱線してしまったが、とにかく椏隈野を煽るドロシー。が、それはおもわぬ方向から迎撃される。

「あのねドロシー……。今日シドさんに来てもらえるようにお願いしたの、私なんだ」

「……へ?」

「正確にいうと、うちの祖父さんがレオナのパパさんに提案……うん、提案したんだけどな」

 始まりはウェスト家の食卓。
 「こんどの学校対抗のバスケ大会では、すこしでも活躍したいな……」という、レオナのつぶやきだった。
 それを聞いた父が商工会の飲み会でぽろっと話したところ、『なら俺がいいコーチを用意してやる』と胸を叩いた人物がいたらしい。
 つまりは椏隈野商店が店主――、目の前にいる椏隈野シドの祖父である。
 かくして椏隈野シドはレオナ専属のバスケコーチとなることが決定。その顔合わせが今日だった。

「レオナー! なんでおしえてくれなかったんだよー!」

「えっと……、一昨日にも昨日にも、このお店に来る前にも話したよ? トイレに行く前にも、シドさんとお話をしてくるけど着いてくる? って……」

 まったく記憶になかった。
 っていうか宴会場に椏隈野がいたことにすら気が付かなかった。レオナ以外の男なんてどうでもいいし。レオナには自分がいればいい。
 レオナはいつもどおりの困ったような笑顔を浮かべているが、額に汗が浮かんで見えるのは気のせいだろう。
 そこで空気を読まない男の声。

「ちなみに俺は昨日いきなり祖父さんに聞かされたぞ……。ま、大きな大会がしばらくないからいいけどな」

「おまえのことなんかどうでもいい!」

「さいですか」

 肩をすくめる椏隈野、その余裕綽々な態度がまた神経を逆撫でる。

「とにかく、ね? そういうことだから、ドロシーは見守ってて……ね?」

 両手を胸元で組み、上目づかいで懇願するレオナ。
 瞳の奥には、これまで見たことがないような切実な想いが見える。
 そんな渾身の懇願を受けたドロシーは――

「ダメダメダメー! ぜったいにダメ!」

 ――もちろん反対した。それはもう全力で反対した。
 理由? 椏隈野シドという男が気に入らないこと以外になにがある。

「こんな得体のしれない男とふたりきりだなんて、絶対にダメ!」

 そうだ、だいたいどうしてこんな男にコーチを頼むのだ。
 バスケの練習がしたいのなら自分を頼ればいい。
 バスケットボールに触ったことすらないが(大会で行うスポーツは男女で異なる)、きっとなんとかなるだろう。

「え、得体がしれないって……」

 レオナの顔がにわかに引きつって見えたが、憎たらしい椏隈野シドといえば至極冷静に口を開いた。

「よし、じゃあこうしよう」

「なんだよ!」

 噛み付くように応じるドロシーに、椏隈野は朗らかな笑みを返す。

「バスケのことはバスケで決めようじゃないか」

「よしわかった!」

「ええ!?」

 即答するドロシーに驚愕の声を上げるレオナ。おろおろとドロシーに問いかける。

「ほ、本気なのドロシー? シドさんって、あの名門N中学校のバスケ部で1年からレギュラーやってるんだよ? 無謀だよ!」

「もちろんハンデは用意するんだよな!? こっちは素人だぞ!」

 ドロシーの正当なる要求にうなずく椏隈野。

「ああ、それについては当然だ。……つーか何をやるのかすら聞かずに即答したけど、いいのか?」

「じゃあ何をやるかいえ! なんにしても僕の勝利は揺るがないけどな!」

「……うん。なんかお前って人間のことがわかってきた気がするよ。で、何をやるのかだが……フリースロー対決だ。10回ボールを投げて、バスケットゴールにボールが入った回数を競いあう……。が、もちろんこれだけじゃ俺が圧倒的に有利だ。だからハンデを設ける。俺はお前よりも遠くからシュートする。ついでに10回中1回でも外したら負け。これでどうだ」

 10回投げて1回でも外したら負け? どこまで驕り高ぶっているんだこの男は?
 しかし驕れる者は久しからず。己の手でこの男の天狗鼻をへし折ってやるのも一興であろう。
 鷹揚にうなずくドロシー。

「わかった。それで、どこで勝負するんだよ」

「近くの小学校が校庭を開放してたはずだ。そこでやろう。バスケットボールは持ってきてあるが……、宴会場にあるから取りに行ってくる」

 宴会場に戻ろうとする椏隈野に、レオナがおずおずと声をかけた。

「それって……」

「うん、やっぱ何事も早いほうがいいからな。顔合わせが済んだら、そのままレオナのコーチを始めるつもりだったんだよ。ま、その前にこうなるとは思いもよらなかったが……」

「あの……その、ごめんなさい……」

「いいっていいって。こういう負けん気の強いやつは嫌いじゃないしな。ああそうだ、俺のフォームをしっかり観察しておくんだぞ。見ることも立派な練習だ」

 なんて会話をしているレオナと椏隈野を横目に――。すでに己の勝利を確信しているドロシーは、くっくっくと笑うのであった。





 ***





 で、負けた。
 校庭の土に、木の枝で書かれたスコアは10-4。
 どちらがドロシーの得点かは、いうまでもないだろう。

「……」

「ドロシー……」

 うつむくドロシーの背中を、気遣わしげにレオナがさすっていた。
 一方、椏隈野はスポーツマンらしい爽やかな笑顔だ。

「いやー、ドロシーもなかなかやるもんだな! いい勝負だったぞ! よーしレオナ、このまま練習すっか!」

「え? は、はい! ドロシー、そ、それじゃあ……行ってくるね?」

 なにもいわぬドロシーにチラチラと気遣わしげな視線を送りつつ、レオナは椏隈野と練習をはじめる。

「今日はレオナの力量を見たいから、1on1でいくぞ!」

「はい!」

 いつものドロシーであればもちろん再戦を要求したのだろうが、今回はなにもいえなかった。
 まるで吸い込まれるようだった。椏隈野がボールを投げると、バスケットゴールにストンと落ちるのだ。
 それで実力差を認めたから黙っている? これまた当然ながらドロシーはそんなタマではない。
 さっきは相手の土俵で戦ったのだから、今度は自分が勝てるジャンルでの勝負を要求する不屈の女。それがドロシー・ウェストである。
 ではなぜ今回にかぎってなにもいわないのか? 見惚れてしまったのだ――。その洗練された動きに。フォームに。
 そんな自分を必死で否定しようと葛藤するあまり、言葉を発せないでいたのだ。
 自分が男なんかに見惚れたなんて、断じて認めるわけにはいかなかった。
 ドロシーのそんな葛藤は、シドにあらかじめ場所を伝えられていたのであろう父親が迎えに来るまで続くのであった。





 ***





 今さらの説明になるが、小学校対抗バスケ大会の正式名称は、「◯◯地区小学校対抗スポーツ大会」となっている。
 近隣各校の小学5〜6年生が一同に介し、スポーツで競い合う。
 元々は6年生だけで行われる大会だったものの、少子化の影響を受けて5年生も動員されるようになったという忌々しい経緯がある(廃止しろ)。
 行われるスポーツは男女によって異なり、さらにそのスポーツも年によってちがうという仕様だ。
 この大会は小学校によって力の入れ具合に差があり、ドロシーたちの通っている小学校はやる気がない部類に入っている。
 放課後に練習はあるものの自由参加。おまけに指導者がいないので完全に運動神経がいい連中のお遊びの場だった。
 当然ながらドロシーに参加する意思は皆無であり、レオナと遊ぶ気満々だったというのに――。

「お、ストレッチ終わったな。よーし、次はハンドリングだ」

「はい!」

 翌日からは、ドロシー宅からも近いスポーツセンターの体育館に集まることになった。
 授業が終わるとすぐに向かい、レオナが体操服に着替えてストレッチをしている間に椏隈野が合流。
 ドロシーはといえば、体操服の上にパーカーを羽織った姿。体育館脇に設置されたベンチに座り、不機嫌な顔で練習風景を眺めているのだった。

「ようドロシー、今日も元気そうだな!」

「気安く名前を呼ぶな!」

「おっと悪いな、ウェストさん」

 ハンドリングを終え、レオナがドリブルの練習に入ったところで椏隈野が寄ってきた。
 忌々しいまでの笑顔にますます不機嫌になる。この顔を見て元気そう? 喧嘩売ってんのかこいつ!
 噛み付いてやりたいところだが、この3日間で徹底的に受け流されたのでイヤでもムダだと理解してしまった。
 単に受け流されるならばともかく、妙に楽しげに応対されるのだから余計にやる気が失せる。
 というわけで、現状のドロシーとしてはジャブを放つしかなかった。なにかこう、うまいこと弱みでも握れればいいのだが。

「……この練習で、ほんとうにレオナは大会で活躍できるようになるのかよ?」

「まあふつうはムリだな。たった半月足らずじゃ劇的に上手くなるといってもたかが知れてる」

「はあ!?」

 眼を剥くドロシー。どういうことだと食ってかかろうとするドロシーを、「まあ待てよ」と制する椏隈野。

「ただ――、今度の大会は全員強制参加の学校行事だ。そこにチャンスがある」

「……どういうことだよ」

「経験者よりも未経験者の方が多いし、やる気のある奴よりやる気のない奴の方がずっと多い、ってことだよ。特に日本はバスケの競技人口そのものがすくないから、絶対的に経験者の数がすくない。おまけにこの地区にはバスケクラブを擁している小学校が1つしかないときた。おそらく満足に指導できる人もいないだろう。仮にいたところで、まじめに練習する奴がどれだけいるとおもう? とくれば、基礎的な動きと戦術をしっかり叩き込むだけでも、だいぶ活躍できるようになるはずだ。俺の時はサッカーだったが、軽く教本読んでから練習しただけでそこそこ活躍できたぞ」

 果たしてそれが正しいのかドロシーには判断のしようがない。
 とりあえず椏隈野には椏隈野なりの考えがしっかりあることだけはわかった。
 けれど、ドロシーにも突っ込める点がひとつある。

「それはおまえがスポーツ経験者だから通用しただけだろ。レオナは経験がないし、そもそもスポーツが苦手なんだ」

「スポーツが苦手? レオナが?」

 心底意外そうな表情を浮かべる椏隈野。ここだ! 論破ァ! とドロシーはカットインと共に煽りに入る。

「ははーん。なんだ、コーチ気取ってるくせにそんなこともわかんなかったのかよ!」

 さすがに椏隈野の経歴くらいはすでに知っている。
 なんでも昔からバスケが上手くて、現在は特待生として有名私立中学校に通っているそうだ。
 出来る人間には出来ない人間の気持ちがわからないという、典型的なタイプだろう。
 ドロシーが同じ立場ならば、まちがいなく「はぁ? それのなにがわるいの? 出来ないやつが出来るやつに合わせろよ」ってなもんだから、こいつだってそうに違いない。

「俺にはそうは見えないが……」

「おまえなんかレオナと知り合って1週間もたってないだろ! ボクは生まれたときから知ってるんだ!」

「それをいわれると弱いなぁ……」

 困った様子で後頭部をかく椏隈野。「でもさ」と、レオナに視線を向ける。
 そこにはもう困った様子は欠片も見当たらない。

「赤の他人だからこそ、見えてるものもあるんじゃないか? 俺は――、レオナならやれると信じてるよ」

 虚飾のない、どこまでも真っ直ぐな瞳。本気でレオナのことを信じている瞳。
 あんな瞳をレオナに向ける男なんて、これまで見たことがなかった。
 なぜだか頬が熱くなって、おもわずドロシーは眼をそらす。

「ふ、ふん! せいぜい手だけは抜くなよな!」

「おう、それだけは絶対にないから安心してくれ。じゃ、行ってくる」

 ドリブルを終えたレオナの元へ向かっていく椏隈野。
 その背中を見送りながら、わけもなく高鳴る胸をぎゅっと握った右の手で押さえた。

「なんなんだよぉ、あいつは……」

 つぶやくドロシー。これまで出したことのない、弱々しい声だった。





 ***





 光陰矢の如し、その日はあっさりと訪れた。
 大会の会場となる、近隣でいちばん校舎の大きな小学校に集まる各校の生徒たちと、そこそこいる保護者たち。
 競技種目がサッカーである女子生徒たちは校庭へ、競技種目がバスケの男子生徒たちは体育館へと移動していく。
 さてドロシーはといえば、レオナを応援するべくあたり前のように体育館へ移動していた。
 保護者で埋まっている観覧席の中に、見知った顔がひとつあった。
 ドロシーは眉をしかめつつ、その隣にぽすんと座る。

「なんでいるんだよ」

 ぶすっとした声でそう問いかければ、椏隈野はあっけらかんと答える。

「コーチが教え子の晴れ舞台を見ないでどうするんだよ。……っていうか、ドロ……ウェストこそなんでこっちにいるんだ? 試合はどうした」

「そんなのフケたに決まってんだろ」

「大丈夫なのか? いきなり選手がいなくなったら、騒がれるんじゃ」

「ふん、補欠がひとりいなくなったくらいで騒ぐわけないだろ。ボク以外に何人いるとおもってんだよ」

「補欠? お前より運動神経のいい奴がそんなにいるのか」

 意外そうな表情を浮かべる椏隈野。
 椏隈野から見て、ドロシーの評価はなかなか高いようだった。

「……ふん」

 妙な勘違いをされるのも癪なので、ドロシーはしぶしぶ経緯を説明してやる。

「ボクより動ける奴なんて、うちの学校にいるわけないじゃん。もちろん『スタメンになってくれない?』ってお願いされたさ」

「じゃあどうして補欠に」

「断ったに決まってんだろ。めんどいし。だいたいボクには他にやるべきことがあるんだ」

 そう、ドロシーにとってこの日なにより重要なのは――、観覧席から眼下に広がるコートの光景なのだから。
 ちなみに「レオナを応援したいからパス」といったら、相手はあっさり引いた。なかなか聞き分けの良い奴だったと評価している。
 ちょうどいまの椏隈野みたいに「ああ……」とうなずいていたものだ。
 どこか見透かしたような椏隈野の態度にイラッとしたが、今日ばかりは噛みつかないでおいてやる。

「……お、レオナのチームが出てきたぞ」

 そうこうしている内に、レオナを擁するチームの試合が始まった。
 が、レオナは不安げな表情でコートの端っこをうろちょろするばかりだった。
 味方はレオナにまったく期待していないようで、そもそもまったくパスが回ってこない。
 これでは活躍以前の問題ではないか――。ドロシーが思ったその時、敵に囲まれて進退窮まった味方がレオナにパスを回した。
 ふいに、椏隈野がぽつりと呟いた。

「レオナに足りなかったのは――、自信だよ」

 ボールを受け取ると、まるで弾かれたようにレオナは駆け出す。

「コーチに入ってすぐにわかったよ。あいつが、メチャクチャ運動神経いいってことにな」

 コートを軽快に駆けるレオナ、立ちふさがろうとする敵選手を一人二人と抜き去っていく。

「頭だって悪くない。学校の授業で教わった範囲の動きは全部しっかり理解してたよ」

 レオナより背の高い生徒がブロックに入るが、フェイントであっさり抜き去り――、ゴールを入れた。

「だから俺がやることは、基礎トレーニングと対人トレーニングの徹底した反復だけだった。たとえ心は萎縮しても、身体だけは自然と動くように」

 自分でやったことが信じられないという表情を浮かべるレオナに、同級生たちが笑顔とともに代わる代わる背中を叩く。
 すぐにレオナが笑顔を――これまで見たことがない自信にあふれた笑顔を浮かべた。

「これであいつは自信を得られた。あとはもう勝手に活躍し続けるだろうさ」

 椏隈野のいうとおり、レオナはその後も活躍し続けていた。
 コートを自分の庭のように駆け巡り、チームの連携も気がつけばレオナ中心に回っている。
 ついには、観覧席にいるほかの保護者達が「すごいね、あの子」と話題にし始めていた。

「俺がいった通りだったろ? レオナならやれる、って」

 椏隈野の自慢げな声。ドロシーはなにもいえなかった。
 うつむいたまま、荒ぶる内心を表すように手すりを握りしめるドロシー。
 なにもかもが椏隈野の目論見通りになって気に入らない? 理由のひとつとして当然それはある。
 けれどなによりドロシーの心をかき荒らしたのは――。あんな活き活きとした表情のレオナを、これまで見たことがなかったことだ。
 ずっといっしょにいた自分にできなかったことを、あの男はたった半月の付き合いでやってのけたのだ!
 まるで己とレオナのこれまでが否定されたような気分。嫉妬か、怒りか、無力感か、自分でも正体のわからない感情で頭の中が真っ赤に染まる。
 気がつけば、ドロシーは体育館から飛び出していた。








 ***





 校舎裏。日差しが入り込まず、ジメジメとした空気が漂っている。
 ドロシーは壁際に転がっていたコンクリートブロックの上に両膝を抱えてうずくまっていた。
 不意に人の気配。ドロシーの傍にまで近寄ってくると、あきれた声を出す。

「おいおい、弟の晴れ姿を見届けないでなにやってんだよ」

「いまのボクはダンゴムシなんだ……。薄暗くてジメジメしたところでこうして膝を抱えてるのがお似合いなんだよ……」

「お前はなにをいってるんだ」

 椏隈野の声に、あきれの色が濃くなったような気がする。
 しかしドロシーの知ったことではない。

「レオナにはもう、ボクなんか必要ないんだ」

「……んん? どうしてそうなったんだ?」

「お前がそういったんだろ……。ボクがいるから、レオナは自分に自信が持てなかったんだって」

「? そんな話いつ……、ああ、なるほど。だからいきなり駆け出したのか……」

 椏隈野がため息をつくと、すぐ隣でゴソゴソと音がした。
 膝に顔を埋めたまま、ドロシーは視線だけ左に向ける。
 ドロシーと並ぶように、椏隈野もまたアスファルトの地面に座っていた。

「そもそも……、どうしてレオナが俺にコーチを依頼したか知ってるか?」

「……しらないよ」

「お前のためだよ」

「え?」

 おもわず顔を上げるドロシー。こいつにコーチを受けるのが自分のため? 眉をしかめる。

「お前にすこしでも迷惑がかからないようにしたい、そのために俺にコーチを依頼してきたんだ」

「……なんだよそれ、わっけわかんない」

 ふたたび顔を膝にうずめようとするドロシーを、「まあ待てよ」と制する椏隈野。

「あれはそう……、宴会の日にレオナと俺が初めて会話した時のことだ」

 そういって語り始める椏隈野。
 居酒屋の中はうるさい、けれど店の前で会話するのも落ち着かないだろうと、店の裏で話し合うことになったという。
 椏隈野にしてみれば丁度暇になるタイミングだったし、祖父経由の依頼ということで断る選択肢はなかった。
 なので椏隈野自身は軽い顔合わせのつもりだったのだが、レオナの深刻な態度に襟元を正さざるを得なかったそうだ。

『私……、顔のことで昔からよくからかわれるんです。それをいつもドロシーが助けてくれて……』

『頼りがいのある兄弟じゃないか』

『でもイヤなんです』

『からかわれることが?』

『それもありますけど……。私ひとりならいいんです、だって我慢すればいいだけだから……』

『なら、なにがイヤなんだ?』

『私がなによりもイヤなのは……、そうやっていつまでもドロシーに甘えて、迷惑をかけつづけていることです……』

 椏隈野がそこまで話したところで、ドロシーは声を張り上げた。

「ボクはレオナのことを迷惑だなんておもってない!」

「だろうな。でもレオナはそう思ってた。だから、すこしでも変わろうと決意した」

 レオナなりにどうすればいいか考えに考えたという。
 たとえばからかってくる奴に正面から堂々と立ち向かう? いやそれはムリだ。

「相手を殴ることなんてもってのほかだし、口喧嘩だってできない。だからせめて、大会で活躍することで自分の存在を周りに認めさせようとしたんだ」

 椏隈野の口から語られるレオナの本心。
 このことを今の今まで知らず、知ろうとしなかった自分。ますます惨めな気持ちになっていく。

「……どっちにしろ、レオナのことを変えられたのはお前だろ。ボクなんて……」

 それがますます自分を惨めな気持ちにさせる行為だと自覚しながらも、ドロシーはすねた言葉を口にする。

「それはたまたま大会の競技がバスケで、たまたま身近なところにバスケが得意な俺がいたってだけの話だが……。ふむ、でもまあ……」

 考える素振りを見せる椏隈野。つづく言葉に、おもわずドロシーは身を固くする。

「たしかに――、お前がいたせいでレオナはこれまで自分に自信を持てなかったのかもしれない。ひょっとしたら、お前がべったりすぎたせいで、変わる機会そのものを奪ってしまっていたのかもしれない。いない方がよかった、それも一面の真実なのかもしれない」

 いやだ、聞きたくない。じわりと涙がこみ上げてくる。目を閉じてぎゅっと膝を抱えるドロシー。
 「でもな」。確信を持った強い声。おもわず顔を上げれば、椏隈野はやさしげな目でこちらを見ていた。

「俺は断言するよ。お前がいたからこそ、レオナは変われた――、こうして自分に自信を持つことが出来たんだ」

「……なんで、いいきれるんだよ」

 涙声で、ドロシーはどこか縋るように問いかければ、椏隈野は答える。

「人間、自信をつけるには成功体験を重ねるのが一番だ。そして成功するには、当然ながら挑戦する必要がある。でも、レオナは自分から果敢に挑戦していくタイプではないだろう? ほら、俺とレオナの会話を思い出してみろ。あいつは自分ひとりがイヤな目に合う程度なら、我慢できちまう奴なんだよ。ドロシーがいたからこそ――、ドロシーのためにレオナは今回こうして挑戦することができたんだ。俺はただ、そんなレオナの手助けをしただけに過ぎないよ」

 椏隈野は右手を伸ばすとドロシーの頭に乗せ、ほほ笑んだ。
 まるで身体の芯が熱を持ったような――、未知の感覚にドロシーは包まれた。

「どちらが欠けても回らない。いい兄弟だよ、お前たちは」

 そのままポンポンと頭を撫でる椏隈野。
 お腹からこみ上げてくる切ない気持ちをごまかすように、ぷいと目をそらして悪態をつくドロシー。

「き、気安く頭をさわるなよ。髪型がくずれちゃうだろ……」

「はは、調子が出てきたじゃないか。さて……、と」

 離れていく手。
 おもわず「あっ……」と名残惜しげにちいさくつぶやいてしまったが、椏隈野に気づいた様子がなくてホッとする。
 椏隈野は立ち上がると、尻をパンパンと叩いて砂利を落とした。

「俺はこれからまたレオナの応援に戻るわけだが……、ドロシーはどうする?」

「……ボクも戻るに決まってるだろ。ボクが応援しないで、だれがレオナを応援するんだよ」

「よし! それじゃあお先に……」

「名前!」

 とっさに声を張り上げるドロシー。頭に?を浮かべる椏隈野。
 つづく言葉が、なぜだか出てこない。これまでさんざん悪態をついてきたのに、なぜだか今はなにも言葉を発せられない。
 焦るドロシーを尻目に、「あー」と声を上げる椏隈野。申し訳なさそうな様子で、後ろ手に頭をかく。

「そういやさっきドロシーって呼んじまったな。わるかっ……」

「これからボクのことはちゃんとドロシーって名前で呼べ。ボクも、お前のことをシドって呼んでやる」

 謝罪をさえぎるように早口でまくし立てるドロシー。ポカンとするシドだったが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
 そうだ――、このボクの名前を呼ばせてやるんだから喜んで当然。なのに、体温がさらに上昇した気がする。

「おう! それじゃあなドロシー、先もどってるぞ!」

 立ち去っていくシド。
 完全に自分の傍から離れていったことを確認すると、体操着の袖で目元をぬぐい、頬を両手で叩いて立ち上がった。
 ずいぶんと席を外してしまったが、早くレオナの応援に戻らねばなるまい。己とレオナは一心同体なのだから。
 でも――、体育館に戻る前に、水飲み場で顔を洗ってこの身体の火照りをすこしでも冷まそう。
 きっと冷めることはないのだろうという確信を抱きながら、ドロシーは歩き出した。





 ***





 それからまあ――、色々とあった。
 パパがいきなり「故郷でお好み焼き屋を開く!」といい出して、カナダに移住することになったり。
 店は大成功したが、これまたパパがいきなり「そろそろ日本に戻りたいな!」といい出して、あっさり日本に戻ってきたり。
 入学先の中学校には小学校時代の知り合いがひとりもおらず(ひょっとしたらいたのかもしれないが)、幸先の悪いスタートを切ったり。
 客観的にみればなかなかに波乱万丈な人生を送っている、といっていいだろう。
 しかしドロシーはいつだって変わらない。隣にレオナさえいれば、あとのことはどうでもよかった。
 プリパラデビューをして。すったもんだあってドレッシングパフェを結成して。パプリカ学園に入学して。
 ファルル絡みの騒動を乗り越えてからは、レオナ以外の存在にもちょっとは目を向けてやるようになったが、根っこの部分はそう変わるもんじゃない。

「ねえ、ドロシー」

「んー? なにー、レオナー」

 ベッドにうつ伏せで寝転がり、漫画を読んでくつろいでいるドロシー。
 鼻歌を歌いながら上機嫌で足を振っていると、ふいに学習机で宿題をしていたレオナが声をかけてきた。
 おそるおそるといった態度。ドロシーは眉をしかめつつ、いつも通りに生返事をする。
 しかし続く言葉で、心臓がドクンと跳ねた。

「シドさんのこと……、おぼえてる?」

 ピタリと、足の動きが止まる。ドロシーは感情を押し殺すように平坦な声で応じる。

「……おぼえてるけど、どうかしたの?」

「えっと……。いま、なにをやっているのかは知ってる……かな?」

「……ふん、どうせ今も玉遊びに夢中なんだろー」

 あの大会の後、ドロシーがシドと会うことはなかった。
 それも当然の話で、あれから間もなくカナダへ飛んでしまったのだから。
 中学一年時に日本へ戻ってきた際、また商工会を通してシドの連絡先を教えてもらおうかと考えたことはあった。
 だが、そこでふと考えたのだ。ほんの半月足らずの付き合いでしかない自分のことを、憶えているのか?
 よく知らないが、シドは強豪校のバスケ部でレギュラーをやってるそうじゃないか。
 常に挑戦をし続けていて、流されるまま生きてきた自分よりもずっと濃密な人生を送っているにちがいない。
 ならば自分の存在などとっくに忘却の彼方であろう。よしんば憶えていたとしても、そこから何かが発展するとは思えなかった。
 そもそも住む世界がちがったのだ――。ドロシーはそう結論付けると、シドのことを綺麗さっぱり忘れることにした。そう、忘れようとしたのだ。
 だというのに、さっきから妙に歯切れの悪かったレオナは、ドロシーの顔を見るやなにかを決心した様子で口を開いた。

「それがねドロシー。あれから、シドさんは……」





 ***





 住宅街の中に埋没するようにその店はあった。椏隈野商店。
 木造2階建ての1階部分が店になっており、その出入り口であるガラスの引き戸の前を、右へ左へ行ったり来たりしているドロシーがいた。
 ピタリと立ち止まると、意を決して引き戸に手をかけようとして――、直前で止まった。
 レオナから聞いた通りであれば、この引き戸の向こうにはまず確実にシドがいる。およそ3年ぶりの再会。ドクンドクンと心臓が緊張で高鳴る。
 引き戸を開いたらなんて声をかけよう。元気に? しおらしく? 猫をかぶって媚び媚び? もしくは喧嘩腰?
 そもそもシドは自分のことを憶えていてくれているのだろうか。憶えていなかったらどうしよう。
 事故のせいでバスケを止めざるをえなかったという。下手をすれば、バスケに纏わる人間関係そのものを忌避するようになっているかもしれない。
 なんかそんな感じのトラウマを抱えた男が出て来る漫画だかドラマだかを見たことがあるような気がする。
 次々と湧き上がるネガティブな発想は、不安となってドロシーを追い詰めていく。額から流れ落ちた脂汗が、伸ばした手の甲に落ちた。

(あああああああああああああああああああああああ!!)

 やがて、とうとうその場に頭を抱えてうずくまってしまった。
 もはやいうまでもないが、ドロシー・ウェストは椏隈野シドのことが好きだ。
 どれくらい? と訊かれればハッキリLOVEだ。好感度がレオナと並んだ生まれて初めての他人で――、男である。
 ドロシーは自分が身勝手な人間だと結構わりとそれなりに自覚している感じだった。
 だからといってそのスタイルを変える気も必然性もまったく感じていないし、むしろこんな自分が大好きだ。
 退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ! を素で行くライフスタイルを送ってきたドロシーであったが、そのせいで好意を抱いた異性に対する態度がわからなかった。

(うぅ……、どうしてついてきてくれなかったんだよお、レオナぁ……)

 シドとひとりで会って、まともに会話できる気がまったくしなかった。
 せめて隣にレオナがいてくれれば心強かったのに、当のレオナと来たら「きょうは用事があるから……、ごめんね?」である。
 「そんなことよりボクの方を優先してよー!」といつもどおり駄々をこねてみたが、やんわりとした態度ながら強硬に断られてしまった。
 いつものドロシーであれば、「レオナが来ないならじゃあ行かなーい!」とその場でふて寝を決め込んでいただろう。
 つくづくシドの存在は己を狂わせるとおもいつつ、それを満更でもないとおもってる自分に気がついて、羞恥心からドロシーは頭をかきむしる。
 なんにせよ、こんなところでいつまでも足踏みしているわけにいかない。出掛けにレオナからかけられた言葉をおもいだす。

『いつものドロシーらしく、だよ?』

 やはりレオナはこの世界のどこの誰よりも自分のことを理解してくれているのだろう。
 そうだ、難しいことなんて考えるのはやめて、いつも通りでいればいい。
 結局どれだけ悩んだところで、今すぐシドに会いたい気持ちは変わらないし、自分の本質が変わることもないのだから。
 いつもの自分であればそう――。眼の前の引き戸をなんの躊躇もなく開け放って、こういうのだ。

「やいやいやい! お客様が来てやったぞ!」

「いらっしゃいませー……。ってなんだ、ドロシーか」

 そうしてシドから返ってきた反応は――、拍子抜けするほど3年前と変わらぬ調子だった。
 3年という月日で、あの頃よりも大人びた顔つきになっているが、そこにいるのはまちがいなくドロシーの知っているシドだ。
 っていうかあまりにも変わらなすぎて釈然としなかった。こっちは散々思い悩んでいたのに、蓋を開けたらこれか!

「なんだよそのなげやりな態度は! 3年ぶりの再会なんだからもっと感動にむせび泣けよー!」

「おまえはもうちょっと己の態度を省みろよ……。自分のことをお客様呼ばわりする客なんて初めてみたぞ」

「あとなんですぐにボクだってわかったんだよ。おかしいだろ!」

「プリパラTVで何度か見た。たまに特集まで組まれるんだから、なかなか人気あるみたいじゃないか。おまえ外見だけはかわいいもんなあ」

「外見だけいうな! いやでもかわいい……ふへへ……」

 ボクがかわいいのは自明の理であり世界の真理である。
 だからもはや褒め言葉ですらないというのに、シドにいわれただけでニヤニヤが止まらなかった。
 チョロい。チョロすぎる。こんなチョロい女はボクじゃない。でもニヤけてしまう。
 が、次なるシドの言葉でそのニヤけた顔は凍りつく。

「で、なんで女装してんだ?」

「……え?」

「いやだから、なんで女装してんだよ」

 時が止まったような気がした。シドは黙り込んだドロシーを見て、首をかしげている。

「なあドロ……」

「おいシド、これからボクが訊くことには素直に答えろよ。いいな?」

「へ? いきなりなんだよ」

 ギロリと睨みつけると、シドの肩が跳ねた。

「い・い・な?」

「お、おう」

 地の底を這うようなドロシーの声に、シドはコクコクと頷くばかりだ。
 すこしだけ溜飲が――、下がるわけがねえ。とにかく質問をする。

「ボクの名前は?」

「ドロシー・ウェスト」

「年齢は?」

「えーっと……、いまは中学二年生だよな? だから14か?」

「ぶー、早生まれだからまだ13だよー。性別は?」

「男」

「おまえー!!!」

「うお!?」

 飛びかかるドロシー。レジ越しにシドの首を両手で締めようとする。
 が、あっさりシドに両手首を掴まれて封じられてしまう。しかしドロシーの勢いは止まらない。

「ど、どうしたドロシー。落ち着け!」

「うるさいうるさいうるさい! おまえずっとボクのこと男だとおもってたのかよー!」

「ちがうのか?」

 素の表情で問いかけるシド。カチン、という音がどこからか聞こえてきた気がした。

「女だよ! お・ん・な! なんなら戸籍謄本もってきてやろうかこのヤロー!」

 ギャーギャーと取っ組み合うドロシーとシド。
 ひとしきりやりあったところで、ドロシーのスタミナが先に切れた。ゼーハーと肩で呼吸するドロシー。
 ドロシーの呼吸がすこし落ち着いたタイミングに合わせて、シドが口を開く。

「あー……、勘違いしてて悪かったよ。ごめん。でもお前って女だったのか……、そうか……」

 謝罪の言葉を述べつつも、シドの顔にはありありと『信じられん』という表情が浮かんでいた。
 信じられんのはこっちだと腹の中で毒づくドロシー。
 たしかに男子顔負けの大暴れをしていたことは認めるが、ちゃんと女の子らしい格好をしていたはずだ。
 初めて会った時の服装はパーカーとハーフパンツで、それからはずっと体操着の上にパーカー……。……いやいや、だとしてもありえないだろう!
 最後にシドと会ったのは小学5年の時だ。まだチンチクリンだったし、女として見られてはいなかったのだろうなくらいの想定はしていた。
 なればこそ、あれから数年という時を経て美しく成長した自分の姿で度肝を抜いてやれると思っていたのに、この男ときたら――。ドロシーの肩がプルプルと震える。
 いまのいままでドロシーのことを文字通り"女として見ていなかった"のだ!

「いやだってレオナが男子だろ? ならおまえも男子って考えるのが自然っていうか……。あれ、ならなんであのとき観客席にいたんだ?」

 シドはなにやら言い訳をしているが、ドロシーの耳には入らない。
 許せぬ。断じて許せぬ。これでは恋心を募らせていた自分がバカみたいではないか。
 あれがすべて男のドロシーに向けられた言葉で、そんな言葉にときめいていたなんて。
 こうなったら――、意地でもこいつに自分を女として自覚させてやる! ドロシーの唇が動く。

「なら……、調べてみればいいじゃん」

「は?」

「ボクの身体をさわって、女かどうか調べてみろっていってんの!」

 ドロシー的には一世一代の大勝負であった。
 女として自覚させた上で、ワンランク上の関係に駆け登ってしまうかもしれない。
 覚悟が充分に決まっているとはいい難いが、勝負とは往々にして本人の覚悟とは無関係に始まってしまうものだと、プリパラを通して学んでいる。
 さあ――、どんと来い! あの頃よりすこしは大きくなった胸を張るドロシー。

「いや、いいよべつに……」

 が、そっと瞳を逸らすシド。ドロシーは予想外の反応に目を剥く。

「ちょ!? ふっざけんな! 女にここまでいわせてなんだよその態度!」

「そういうのは間に合ってんだよマジで……」

「間に合ってるってどういうことだよ! まさかおまえ……有名校のバスケ選手って立場を利用してとっかえひっかえしてたのかー!?」

 札束風呂に入って、女を両サイドに侍らせているシドの姿を幻視するドロシー。
 が、現実のシドはカウンターに頬杖をつくと、淡々と答える。

「あのな……。5年前に、うちより名門のライバル校が女絡みの事件で廃部になったんだよ。それからというもの、うちは女性関係には死ぬほど厳しいんだ。そうでなくとも男子校だし、出会いがないし。彼女持ちなんて、俺が知ってるかぎり後輩先輩含めて二人しかいなかったぞ」

「じゃあなんで女の身体にさわれる絶好の機会を活かさないんだよ! 男子高校生なんて性欲の塊だろ! さあこい!」

 カモン! と両手を広げるドロシー、先ほどまであった羞恥心など完全に消え去っていた。
 これはもはや――、女としてのプライドを懸けた戦いだ!
 が、そんなドロシーにシドはまるで人生に疲れた老人のような達観した眼を向ける。

「だからそういうのは間に合ってるんだって……。キミはもっとつつしみを持ちなさい……」

「なんで諭されてる感じになってんの!? おかしいだろ! もっと欲望に正直になれよ! このドロシーさまの、世界がうらやむわがままツヤ肌ボディをさわりたいっていえ!」

「お前はほんとうに3年前と変わらないな……。不機嫌な面もあいかわらずだ。それじゃモテないぞ、……女に」

「だれのせいだ! だれの! っていうかまた男扱いしたなー!」

 ムキー! と怒るドロシー。
 シドは背後の棚の上に置かれている冷蔵庫から、やおらなにかを取り出した。

「ほらほら……、これやるから落ち着けよ」

 そういって差し出されたのは、色から推測するにグレープ味のチューチュー系ジュース。たしか20円の商品だ。

「ふん、こんな安物でボクを懐柔できるとおもったら大間違いだぞ!」

 などといいながら受け取りつつも、シドからの初めてのプレゼントに満更でもなかった。
 さり気にシドが自分の財布からレジに20円入れているのを横目に、歯で飲み口を噛んで穴を開けてチューチュー飲み始める。
 すぐに飲み終え、シドから差し出されたゴミ箱に捨てたところで、ふとシドの上部にある壁掛け時計に目を向ければそろそろ帰る時間だった。
 本音をいえばまだ帰りたくなかったが、門限を破るわけにはいかない。

「……そろそろ家の門限だから、帰るぞ」

 名残惜しい気持ちを堪えつつ、店を出ようと背を向けかけたドロシーに、シドの声。

「また来るよな?」

 いわれなくたっていくらでも来るつもりだったが、こうして期待されればうれしいものだ。
 ドロシーは力強く応じる。

「ふん! こんなくたびれた店、客なんてろくに来ないだろうからな! これからはボクがとくべつに通ってやる! 感謝しろよ!」

「おう、つぎに来る日を期待して待ってるよ」

 そういって笑顔で手を振るシドに見送られながら、ドロシーは店の引き戸に手をかける。
 3年ぶりの再会。直前までは不安でいっぱいだったが、蓋を開けてみればあっさりとしたものだった。
 未だに女として見られていない事実はまっこと腹立たしいが、なにこれからは時間が有り余っているのだ。
 決意を新たに、引き戸を開き――

「ああ、そうだドロシー」

 ――かけたところで、またもシドに声をかけられた。
 決意に水を差されたような気がして、眉をしかめながら振り返るドロシー。

「なんだよ? もう帰らないと門限に……」

「おまえは昔から、かわいい女の子だったよ。ドレッシングパフェ、応援してるぞ」

 そういって、シドはイタズラが成功した子どものような笑顔を浮かべていた。



 気がつけば、店の外に出ていた。
 そっと右手を胸に押し当てる。頬が熱い、心臓がうるさいくらい高鳴っている。

(ほんとうに、あの男は……)

 意地が悪いくせに、こうやって不意打ちで自分がよろこぶことをやるのだ。
 3年前から、まったく変わってない。ぎゅっと右手を握る。

(まったくもって……)

 ドロシー・ウェストは不機嫌だった。







 〆



















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