ミーンミーンと蝉の鳴き声が聞こえる。
 季節は夏。外はうだるような暑さだが、エアコンの効いた店内にいるシド達にはまったく関係のない話だった。
 本音をいえば節電のために温度を下げたいところだが、一応食品をあつかっているのでそういうわけにもいかなかった。

「それでねそれでね! 写真をズームしてみたら……その人の背中に幽霊がいたの!」

 先ほどから昨日見たという心霊特番の話をしているみかん。
 よほど面白かったようで、瞳を輝かせながらテーブルに身を乗り出している。

「とってもこわかったなのー!」

 そう笑顔で締めくくるみかん。さっぱり怖がってるようにはみえないがご愛嬌である。
 対するあろまは――、露骨にガタガタ震えていた。

「なんだあろま、実はホラーが苦手だったりするのか?」

 シドが冗談交じりにそう声をかけてみれば、あろまは慌てた様子でいう。

「な、なにをいっておる!? ホラーそのものは好きに決まっておろう! 我のキャラ作りのためにはかかせぬ素材だしな! 
 ただ幽霊とかああいう心霊モノっていうか、じめじめしたジャパニーズホラー系統はどうも苦手で……なんてことはないぞ! 本当だぞ!?」

 いろいろぶっちゃけてくれたあろまであった。
 にしても――。盛ってるカップルが凄惨にコロコロされたり。キ◯ガイ一家に拉致監禁されてひどい目にあったり。
 ハエ人間になったり。拘束から抜け出すために自分の手をナイフでギーコギーコするようなホラーは大丈夫なのに、心霊モノはダメらしい。
 つーかキャラ作り的にはむしろそっち寄りなんじゃねーの? とシドは疑問に思わないでもないが、トーシロにはわからない何かがあるのだろう。
 それにそんな些末な疑問を抱くよりも、いまはやるべきことがある。

「なああろま」

 真剣な声。あろまも空気が変わったのを察したのか、真面目な表情で応じる。

「む?」

「実は内緒にしてたんだけどさ……。いるんだよ……」

 これまた真剣な表情で言葉を重ねるシド。ただならぬ気配に、あろまの顔が緊張に引き締まる。

「……な、なにがおるというのだ?」

 果たしていうべきか否か。そう迷っているような素振りを見せるシド。もちろん何一つ迷ってなどいない。
 沈黙することで、あろまの緊張感をさらに高めようとしているだけだ。事実、あろまの顔に浮かぶ不安の色は、どんどん濃くなっていく。
 状況は思い通りに推移している。釣り上がりそうになる口元を必死に堪える。やがて意を決したような表情で、手招きをするシド。
 あろまはにわかに躊躇した様子だったが、とことことテーブル席からカウンターまで移動する。
 シドはやおらカウンターから身を乗り出し、不安げなあろまの耳元に顔を近づけ――、ボソッとささやく。

「背後霊が、さ……」

 小さく「ひっ」と悲鳴をあげるあろま。それでも気丈に振る舞おうとする。

「わ、我をおどかそうとしたってそうはいかぬぞ!?」

「我がご主人様をおどかすだなんてそんなそんな……。ほら、これから証拠だって見せるからさ。まずはほかの人にも見えるようにするぞ。10カウント〜」

「え? ちょ……、え!?」

「10、9、8……」

 突然の展開に慌てふためくあろまだが、シドのカウントは続いていく。
 シドの目配せで、みかんがそろーりそろーりと動き出したことにも気がついてない。
 わたわたとしている間に、その瞬間は訪れる。

「……1、0!」

「ひいぃ! 呪わないでー!」

「じゃじゃーん! なの!」

「……って、みかん?」

 頭を抱えてしゃがみこんだあろまだったが、すぐにポカンとした表情になる。
 カウントの終了と同時に、シドの右肩からひょこっとみかんが顔を出したのだ。

「くくく、見事に引っかかったなあろま! やーい」

「やーいやーいなのー!」

「え? え……?」

 イタズラ成功! ひとり、なにが起こったのかわかっていないあろま。

「だいたい霊なんてほんとうにいるわけないだろ。はっはっは」

「はっはっはーなのー!」

 はやし立てるシド。首に抱きついてぴょんぴょん飛び跳ねながら、みかんも追従する。
 あろまはぽかんとしていたが、ようやく担がれたと理解したのだろう。
 ぷるぷる震えながら立ち上がり、涙目で叫ぶ。

「な、汝らに呪いをかけてやる! 背後霊に取り憑かれてしまうがよい!」

「ははは、あろまになら呪われてもいいぞ」

「いいぞー! なの! おびえるあろまもかわいーなの!」

 などというやりとりをした翌日のことであった。
 朝。顔を洗うべくシドが洗面所の鏡と向かい合うと、背後に男が立っていた。
 いや、正確には左肩後方にだがってそんなことはどうでもいい。

「……マジかよ」

 背後霊が、取り憑いていた。





 ***




 N◯Kではぼちぼち終戦記念日に合わせた特番を流すようになっていた。
 それらの特番で見た旧日本兵の軍服姿そのもの。おまけにラフな着こなしと来れば、背後に立つ男がどんな来歴なのかぼんやり想像がついてしまう。
 対話を試みてはみたものの、口は動けど声は聞こえない。当然シドは読唇術など使えない。
 ならば紙とペンを渡して筆談させようとしたが、手がすり抜けて掴めない様子。
 そして残った意思疎通の手段はボディランゲージ。背後に立つ男もそれを即座に悟ったらしく、苦笑しながら両手を上げた。お手上げ。
 現状に対する純粋なリアクションと、シドに対して悪意がないという意思表示だろう。ひとまずそれを信用してみることにする。というかするしかない。
 不気味だ。死ぬほど不気味だ。すまねえあろま、今なら心霊モノがダメなお前の気持ちがよーくわかる。だから解呪していただけないでしょうか……。
 まあ現実問題あろまにそんな力があるわけないのだが。
 「呪うぞ」が口癖の少女が本当に呪いの力を持っていれば、己なんぞもっと早い段階でひどい目にあっているはずだからだ。
 ちなみにそのあろまとみかんだが、お盆の帰省だったりで2週間ほど来られないらしい。

「……囲碁、打てるか?」

 半ば現実逃避気味にそう訊いてみたところ、背後霊はコクリとうなずいた。
 ハッキリいって知らない男が背中にいるというこの状況は不気味でしょうがない。が、いるものはしょうがない。歩み寄る努力くらいはするべきだろう。
 というか、しなければ早晩耐えられる自信がなかった。

(お互いに協力してなにかをやれば、すこしは親近感もわくだろう)

 会話はできない、物は掴めない、ボディーランゲージは可能。その条件で協力できるなにか、と考えてとっさに思いついたのがボードゲームだった。
 その中から囲碁を選んだのが某漫画の影響であることは否定しない。しかし背後の男はうれしそうだし、期せず良案だったようだ。
 自室のデスクに座ってひさしぶりにノートPCを起動。『ネット対戦 囲碁』で検索をかけて出てきた候補の中からテキトーにひとつ開く。
 規約をさらっと読み終えると、ハンドルネームとパスワードを登録する段階に入る。

(もちろんハンドルネームは【sai】に……。さすがにそれを名乗る度胸はねぇや。となれば)

 極めて無難に【sid】というハンドルネームをつけ……ようとしたら、他に使っている人がいるということで使えず。
 というわけで、【sid2016】というなんとも締まらないハンドルネームでログイン。ちなみにシドは囲碁のルールなどこれっぽっちも知らない。
 なので指し示された位置に碁石を置くだけのマシーンと化していたが、しかし立て続けに勝利の文字ばかり眺めていれば、さすがに見えてくるものがある。

「この背後霊、ふつうに強いんじゃないか?」

 このネット囲碁にはランクシステムが搭載されており、標準設定では己と近しいランクのプレイヤーと自動的にマッチングするようになっている。
 背後霊の強さがよくわからなかったので、律儀に標準設定で下位ランカーとの対局から始めていたが、10連勝した時点で設定を変更。
 ためしに上位ランカーとのみマッチングするようにしてみた。
 ちなみに最低ランクは18級で、17、16と等級は上がっていき、1級の次は初段となり、そこから上がって最高ランクが9段。
 そのうち5段から9段が上位ランカーだとこのネット囲碁では定義されていた。そして設定変更後、最初にマッチングしたのが9段のプレイヤーであった。
 さすがにこれまでのようにサクッと勝利とはいかず、さすがに調子に乗りすぎたかと焦燥感に駆られながら打ちつづけた2時間後、対局を制したのは背後霊。

「この背後霊、実はメッチャクチャ強いんじゃないか?」

 それ以降、シドの期待を裏切ることなく連戦連勝。一週間かからず最高ランクにまで登りつめたのだった。

「あーあ。こんなことなら日和らず【sai】ってハンドルネームにしときゃよかったかなー。あ、またシオンさんから対局依頼が来てる」

 脳天気にそんなことをつぶやきながら、その後も背後霊に付き合ってネット囲碁をプレイしていた、ある日のことだった。

「いらっしゃいませー」

 店番中。珍しく来店したお客さんにあいさつをするシド。
 それも中学生くらいの女の子で本当に珍しい……、というか店長代理になってから初めてのことだ。
 こんな人気のない店に好きこのんでやってくる年頃の娘などいるわけがない。
 少女はまっすぐレジに向かってやってくると、シドの目をまっすぐ見据えながら口を開いた。

「失礼。こちらに椏隈野シド殿という店員はいらっしゃいますか」

 凛とした眼差しが印象的だった。
 紫色の髪をサイドテールにしており、白いTシャツとスカートを履いている。
 すらりと伸びた手足は、少女らしい華奢さを残しながらも引き締まっており、なんらかのスポーツをやっているのが見て取れた。
 まずまちがいなく美少女に分類されるであろう少女。ひと目見たら決して忘れることはないだろう。そしてシドに心当たりはなかった。

「はあ、それなら俺のことですが……。どちらさまでしょう?」

 困惑しながら答えると、少女の瞳がにわかに見開かれた。そわそわとした雰囲気が漂い出す。

「あなたが……。し、失礼しました。私の名前は東堂シオン。伽藍堂ではシオンと名乗っております」

「伽藍堂……ネット囲碁のシオンさん?」

「はい」

 こくりとうれしそうにうなずく東堂さん。
 シオン――、ネット囲碁で唯一チャットを介して交流している棋士。
 9段の上位ランカー。初日に倒した例の上位ランカーがなにを隠そうこの人だった。
 三回ほど勝負を重ねたところでシオンの方からメッセージが届き、それ以来フレンドとして良いお付き合いをさせてもらっている。
 囲碁のことは知らないのでもっぱら日常会話を交わすだけの関係だが、妙に馬があって毎晩よく長話をしていたものだ。

(東堂シオン、ね……)

 女子中学生であることは聞いていたが、まさか本名でプレイしているとは。
 いささか不用心ではないのだろうか? しかし東堂さんも己にだけはいわれたくないだろうとすぐに考え直す。
 なにせ住んでる場所の話になって、「東京都◯◯区◯◯にある椏隈野商店に住み込んでる」とバカ正直に話したのがシドなのだから。
 ちなみに、この店のことを話したのは昨日のことだ。
 その行動力に感心していると、東堂さんは不意に流れるような動作で膝をつき、すっと両手を差し出して三つ指をついて頭を下げた。

「弟子にしていただきたい!」

「……は?」

 レジを挟んだ向こう側。
 あっけに取られるシドの前で、東堂さんは見事な土下座をかましていた。

「ちょ……、なにやってんの東堂さん!?」

「私のことはぜひシオンとお呼びください!」

「いや、それより頭を上げて……」

「シオンとお呼びください!」

「だから」

「シオンとお呼びください!」

「……ああもういくらでも呼ぶから! シオン! とにかく頭を上げてくれ!」

「弟子にしていただけるのですか!?」

 ガバッと顔を上げるシオン。喜色満面といった様子だ。
 シドは頭痛をこらえるように眉間を揉むと、ゆっくり言い聞かせるようにいう。

「とにかく、そこのテーブルに座ろうか。俺も移動するから」





 ***





 テーブルを挟み、シドとシオンは椅子に座って向かい合っていた。

「俺に囲碁の師匠になってもらいたい、ねえ……」

「はい、その通りです!」

 背筋をピンと伸ばして元気いっぱいに答えるシオンとは対照的に、シドは眉間を揉んでいた。

(で、どうする? 実際にオファーを受けてるのはあんたなわけだが……)

 チラと横目で背後霊を見やると、眉間にしわを寄せて難しい表情をしている。
 やがてゆっくり瞳を閉じると、諦めたように静かにかぶりを振った。

(出来ることなら弟子を取りたかった、か?)

 或いは、これこそがこの背後霊を成仏させるための重要な選択肢だったのかもしれない。
 すっかり慣れ親しんでしまっているが、本音をいえばこの背後霊には消えてほしい。
 そして背後霊にかぎらず霊が消えるパターンといえば、なんらかの未練を晴らした時と相場は決まっている。

(初めて未練たらしい感情を見せたんだ、できることなら取らせてやりたいが……)

 しかし現実問題どうやって指導するんだ? という話だった。
 それは彼も理解していて。だからこその苦渋の決断であることはシドにもわかった。ならばここは断るべきなのだろう。
 後ろ髪を引かれる思いだったが、泣く泣く断りを入れるべく舌を回す。

「あー……、俺もまだまだ高みを目指して修行の身。だれかに教えを説けるほどの器では……」

 それっぽい言葉で煙に巻こうとしたが、しかしシオンはそこまで甘い相手ではなかった。

「教学相長! 正しき師と弟子の関係はたがいを高め合うもの! あなたほどの人物がより高みを目ざすのであれば、今すぐ私を弟子に取るべきです! さあ!」

「お、おう」

 かなり気合の入った売り込みっぷりについ心が揺れる。
 もしも囲碁がちょっとでも出来たのなら反射的に許可を出していたかもしれない。
 どうにか口を開く。

「し、しかしどうしてだ。これまでチャットしてた時はそんな素振り見せもしなかったじゃないか」

「それは……」

「それは?」

 にわかに言いよどむシオンだったが、次の瞬間カッと目を見開くと声を張り上げた。

「オーラを感じたからです!」

「お、オーラ……!?」

「そう! オーラです! 隠しきれぬ万夫不当のオーラ! あなたこそ私が探し求めてきた師であると直感したのです!」

 なるほどさっぱりわからん。
 そもそもド素人の俺にそんなオーラなんてものがあるわけ……、はたとシドは気づく。

(……もしかして背後霊のことを感じ取った?)

 仮にそうだとすれば話は変わってくる。
 シオンの突然の来訪も、この背後霊に惹かれてやってきたのだとすれば――? まともに考えれば発想の飛躍もいいところだろう。
 が、前提として背後霊という超常現象の存在があるのだ。そこから起こるすべての出来事はつながっていると考えても決して考え過ぎではないのではないか。
 つまり現状を打開するためにはシオンを受け入れる必要があるでFA。見事な推理だと関心はするがどこもおかしくはない。

「……よし、わかった」

「では!」

 身を乗り出そうとするシオンを、右手で制する。

「キミのことは弟子として受け入れよう。ただし、すぐに囲碁は教えない。俺が良いというまでは下積み生活になるが、それでもいいか?」

「かまいません! この東堂シオン、天地神明に誓ってあなたの期待に背くことはないでしょう! イゴよろしくお願いします!」

 今度こそ立ち上がって胸を叩くシオン。かくしてそういうことになった。
 細かいことは明日にでも伝えるということで、そのまま今日のところは帰ってもらった。
 背後霊のなんだか心配そうな眼が気になったが、大丈夫、これからなにもかも上手く回っていくはずだ。
 まずは師匠らしく振る舞うための準備期間として、3日ほどあればいいだろうか。
 そんな風に算段を立てた――、翌日のことだった。

「弟子として身の回りのお世話をさせていただきにまいりました!」

 唖然とする俺の前に、笑顔を浮かべたシオンが立っていたのは。





 ***





 玄関。シドの眼前には、右手に風呂敷包みを持ったシオンが立っている。
 朝6時という早朝の来訪者に何者かとおもいきや、まさかの人物にシドは困惑を隠せない。
 ましてや、出会い頭にこんなことをいわれれば尚さらだ。

「弟子として身の回りのお世話をさせていただきにまいりました!」

「……そんなことを頼んだ覚えはないんだが?」

 シドの言葉に、心底不思議そうな表情を浮かべるシオン。

「囲碁の世界で下積みといえば、師匠の身の回りのお世話をするということでしょう?」

「え? あ、ああ。たしかにそう、だな……」

 そんなルールは知らない。
 しかし己より囲碁の世界に対して遥かに精通しているであろうシオンの言だ。きっとその通りなのだろう。
 シオンにしてみれば、早朝の訪問もシドの意を先んじて汲み取ったということか。
 否定もできず濁した答えを返すシドに、シオンは気づいた様子もなく満面の笑みを浮かべる。

「というわけで、今日より住み込ませていただきます!」

「ダメに決まってんだろ!?」

「なぜです!? 炊事洗濯掃除、一通りの家事はできると自負しております!」

「そういう問題じゃない! 男所帯に年端もいかない女の子を住み込ませるってのは、常識的に考えていくらなんでも無理! 無理だ!」

「無理、ですか……」

 目に見えてしょんぼりするシオン。
 どうにか断りきれた。と、安心して余計な言葉を重ねたシドはあまりにも甘く迂闊だった。

「シオンにだって生活があるだろうし、俺に縛り付けて負担をかけるような真似はしたくないし、もっとそのあたり余裕のある……」

 修行プランを考えるから待ってくれ――。そういいかけた刹那だった。

「つまり私にとって余裕のある時間帯であれば、師匠のお世話をしに来てよろしいということですか!」

「そう、シオンにとって余裕のある時間帯であれば……って、え?」

「それでは平日は朝だけ、休日に泊まり込むということでこれからよろしくお願い致します!」

「は、え? 泊まり込む?」

「それでは早速朝餉の用意を! 台所をお借りします!」

 風呂敷包みを掲げながら台所へと向かっていくシオン。
 あっけにとられ、その背中をただ見送るシド。台所から食器の音が聞こえはじめ、ようやく頭が働き出す。しばらくその場で頭を抱えると、やおらつぶやいた。

「……平日の朝についてはシオンの気のすむようにやらせるとして。休日に泊まり込むのは断固として拒否、だな」

 シオンには勝てない。それがシドの出した結論だった。提案の片方を了承することで、もう片方は妥協してもらうしかない。
 そんな皮算用をしつつ、いい匂いがしてきた台所へフラフラと向かっていくのだった。





 ***





 で、それから4日後。
 休日泊まり込みを拒否する話を切り出せぬまま、シドはずるずると朝食の世話をされていた。
 出される料理がどれも旨いから籠絡された? そう問われれば否定はしない。
 畳敷きの居間。シドとシオンは座卓に向かい合って座っている。
 テーブルの上には、卵焼きとおみそ汁に鮭の切り身、白いご飯が湯気を立てていた。

「「いただきます」」

 箸を手に取り、食事を始めるふたり。ふわふわの卵焼きを箸で割り、口に入れると漂う昆布の風味。
 オーソドックスなメニュー。だからこそ、シドにもそこに込められた一手間が理解できてしまうのだ。
 けれどなによりもシドが拒否できなかったのは――、視線を上げるシド。そこにある、シオンのうれしそうな表情だった。
 毎朝それはそれはうれしそうに料理を作り、うれしそうに食事を並べ、うれしそうにシドが食べている姿を見つめているのである。
 この顔を曇らせるなんて想像するだけでもトンでもないことだった。しかし休日に泊まり込まれるのも困る。
 優柔不断もいいところだったが、いよいよ明日はシオンに用事がない日。つまりは休日。もはや一刻の猶予もない。
 食後のお茶。さすがに話を切り出すしかないと、シドは意を決して問いかける。

「なあ、シオン」

「なんでしょうか?」

 ほほ笑むシオン。今日はいつにもまして上機嫌な様子だった。
 部屋の隅。畳の上にはシオンの生活用品一式が入っているであろうカバンが置かれている。
 ちなみにいまの時間は夜の7時である。うん、実はさっきのシーンって夕食だったんだ。
 一刻の猶予もないというかすでにゲームセットである。

(わかってた、わかってたさ……)

 このヘタレめといわれれば否定の言葉もない。が、これをチャンスだと冷静に捉えてもいたのだ。
 親しくなればなるほど、シオンも色々とシドに話してくれるようになるだろう。
 そうすれば、未だ張り付いている背後霊の未練を晴らすための手段が見つかる可能性も高まるはずだ。
 加えて朝だけの付き合いでは会話の時間もかぎられてしまうが、こうしてお泊りとなれば当然いつもより増える。
 このチャンスは断固として活かすべきだとシドは口を開く。

「……えーっと、シオンが囲碁を始めたのって、なにがキッカケなんだ? やっぱり、家族の影響とか?」

「いえ、家族に囲碁を打てる人はいません」

「そうなのか?」

「ええ、それどころか過去に遡ってもまずいないでしょう。というより――、いるわけがないといった方が正しいのですが」

 シオンの意味深な言葉が引っかかった。すかさずシドは問いかける。

「なんでそこまでいい切れるんだ?」

「東堂の家はもともと士族だったのですよ。男なら軍役に就いてお国を守るのが誉れ、女ならお家を守るのが役目という、わかりやすいほど封建的な家だったそうですので」

「なるほど……、なんていうか歴史のある家なんだな」

「まあ、さすがにいまとなってはそんな気風も薄れましたし。だからこそ私もこうして好きにやらせてもらっているというわけですが。それで囲碁を始めたキッカケですが、あれは……」





 *** 





 シドは肩まで湯船に浸かると、深く息を吐いた。
 そこに重苦しいものが含まれているのは、決して気のせいではないだろう。

「ふう……」

 戦前、シオンの家が軍人を排出する家系だったというのは重要なヒントだと思った。
 軍服を着ている背後霊は、或いはシオンの親類縁者かもしれない――。
 そう考え、シオンにそれとなく戦争で死んだ親族はいないのか問いかけてみたら、「戦死者が出たことはない」そうだ。
 ぶっちゃけ背後霊がどうでもよくなるレベルのミステリーだが、そういうことだった。
 幽霊というのは死亡直前の姿で出るのがセオリー。となれば、無関係であろう。
 早速あてが外れて消沈したシドだったが、次に去来したのは「そりゃそうだ」という気持ちだった。目が覚めたともいう。
 目の前の出来事がなんでもかんでも都合よく繋がるなら、この世に未解決事件なんてものは存在しないのだ。となると、次に考えたのは。

(不味いよなあ……)

 シオンはいま、純粋に下積みだと考えて身の回りの世話をしているのだろう。
 だが実質その気のないシドからしてみれば、年端もいかない少女をいいようにこき使ってる後ろめたさしかなかった。
 いまのところまったく修行の催促をされていないが、それも己のことを信用しているからこそだろう。
 きっと師なら適切なタイミングで稽古をつけてくれる――、そんな信用がまた重い。
 風呂に入るまでシオンと他愛のない雑談をしたが、囲碁についてはほぼ独学なのだそうだ。
 これまで師と呼べるような人物もおらず、にも関わらず囲碁の世界大会で5年間王者として君臨していたという。現在は引退状態らしいが、その理由もすさまじいものだった。

『自分を倒せる者はイゴ10年先まであらわれない。だから引退して新しいことに挑戦する』

 傲岸不遜。しかし結果を出してしまっている以上、それは事実となる。
 まずまちがいなく東堂シオンは囲碁の天才だ。それに勝った背後霊はまちがいなくシオンに伍する天才であろうが、矢面に立っているシドはド素人である。
 だいたい首尾よく背後霊がいなくなったとして、そうなったときにシオンをどうやってリリースするつもりだったんだ?
 考えれば考えるほどに、己が表だって師匠面している現状に胃が痛くなってきた。

(まったく、俺は一体なにを考えてシオンを弟子として受け入れようなんて考えたんだ? 背後霊だって難色を示したというのに)

 答えは分かってる。ほんの数日前の過去を振り返って、ため息をつく。

「……気付いてないだけで相当まいってたみたいだな、俺」

 独り暮らしである以上、シドは何もかも自活するしかない。
 けれどシオンがやってきたおかげで、食事を作る時間の分だけ余裕が生まれたのだ。
 こうして精神的に余裕が生まれ、いくらか冷静に物事を見れるようになったのだから皮肉であった。
 やることがないらしく天井の隅に張り付いて忍者ごっこしている背後霊を一瞥すると、シドは決意と共に浴槽から出る。
 慎重に左足から出るシド。いまや杖がなくてもある程度の歩行はできるが、それで油断してすっ転ぶなんてのはマヌケ過ぎる。
 その時だった、風呂場のドアが勢い良く開かれたのは。

「お背中流しにまいりました! もちろんタオルなんて無粋なものは巻いてませんからご安心を! さあ師匠! どうぞこちらにお背中、を……」

 相対するシドとシオン。もちろん湯気で大事なところが隠れるなんてことはない。
 さて問題です。このような状況で健全な大和男子であればどうなるか。そして健全な大和撫子であればどこに目がいくのか。答えはWebで!

「……きゅう」

「ちょ!?」

 シオンは一気に顔を真っ赤にして、その場に崩れ落ちた。
 沈黙。シドはとりあえず風呂場から出ると、バスタオルで身体を拭いてから腰に巻き、深く息を吸って吐いてから眼下に視点を落とす。

「……さて、運ぶか」

 両手をそれぞれシオンの背中と腿に回して一気に抱き上げ、裸体を見ないように運び始める。
 腐っても運動部員だったシドにしてみれば少女など軽いものだった。

「……この歳にもなるとさすがに出るとこ出てるなあ。っていかんいかん……、足元に集中しろ足元に……。……足元に集中しなくちゃいけないんだから、見てしまってもそれは不可抗力だよな……っていかいかんいかん……。……でもちょっとくらい胸に手が触ってしまうのはしょうがないよね。じゃないと持てないし……、うん……」

 えっちらおっちら自室まで運ぶと、パイプベッドに寝かせて毛布をかけてやった。
 服を着せるべきか迷ったが、理性さんと相談した結果それはやめたほうがいいという結論が出たので勘弁してください。
 もっとも季節は夏、エアコンも回していないのでこれで風邪を引くことはまずないはずだ。
 シドはとっとと寝間着の短パンと半袖に着替えると、デスクの椅子をベッドのすぐ横に移動させて座った。
 特に理由はないが左手を開いたり閉じたりしながら、独りごちる。

「ったく、男子高校生にとって女の裸なんて凶器みたいなもんだってのに……。いや、それだけ焦っていたってことなのか……?」

 口にしてハッとする。
 焦っていないように見えていただけで、やはり内心ではシドがいつまで経っても囲碁を教えないことに焦っていたのだろう。
 だからシオンは初心な癖にこんな無茶をしてまで己の歓心を得ようとしたのではないか。

「ぜんぶ、俺の浅慮が招いた結果か……」

 シドはガクリとうなだれる。自己嫌悪に包まれかけた時、ポンと左肩を叩かれた気がした。
 視線を横に向ければ、背後霊がシドの肩に手を乗せていた。やさしげな表情。

「……励ましてくれているのか?」

 コクリとうなずく背後霊。
 背後霊が物に触れることができないというルールは、宿主であるシドの肉体にも適応される。
 だから決して手の温かみも感触も感じることはないはずなのに――、いまこの時、たしかにシドはそれを感じていた。

「そうだな、自己嫌悪に浸ってる場合じゃないよな」

 まずこれから考えるべきことは、自分の都合で振り回した少女の献身に報いる方法だ。
 やはり手っ取り早いのは背後霊と意思疎通する手段を見つけることだろう。
 これまで意図的にそういった手段を見つけることを避けていたが、いい加減に現実と向き合う時が来たのだ。
 そう――、最悪この背後霊と生涯共生していく可能性と。

「……んっ」

 考え始めたところで、シオンが目を覚ました。





 ***





 シドと服を着たシオンは座卓を挟んで向かい合って座っている。
 気まずそうにうつむくシオンに、シドはすっと頭を下げた。

「悪かった」

「え?」

 困惑した声をあげるシオン。すぐに状況を察したのか、あわてはじめる。

「か、顔をお上げください師匠!」

「しかし、俺がなかなか教えないせいで焦れてあんなことをしたんだろう? シオンが倒れたのも俺の責任だ」

 シオンの性格であれば、師に頭を下げさせたとあれば二度と同じことはやらないだろう。
 もちろん純粋に申し訳ない気持ちもある。が、そんな打算があるのも事実だ。

「けれど、シオンも俺の弟子であるからにはもうすこしどっしり構えてもらいたい。それとも――、俺が信じられないか?」

 シオンはなにかいいたげに口を開きかけて、すぐに真一文字に閉じた。師に対して余計な言い訳はしない。ということだろう。
 代わりにシオンは表情を引き締め、シドの瞳をしっかり見据えた。

「師匠の判断にまちがいはない、私はそう信じています。今回のことは申し訳ありませんでした」

 頭を下げるシオンに、シドは鷹揚にうなずいた。

「……うむ」

 うむじゃねーよボケが! 何様だ俺は! 眩しい。眩しすぎる。シオンから向けられる、一切の淀みなく信頼しきった瞳にシドの良心が痛い痛い。 
 しかし己は風呂場で決意したのだ、これまで以上に師として"らしく"振る舞おうと。でも痛い。
 そっと胃を押さえていると、シオンの声。どこか困惑した響きにシドは眉をしかめる。

「ところで――、先ほどから師匠の隣にいるそちらの方は……?」

「――え?」

 震える声で「……見えるのか?」と問いければ、シオンはおずおずと頷いたのであった。





 ***





「なるほど。師匠はこの方――、背後霊殿に碁を打たせていたというわけですか」

「……はい」

「ボディランゲージでしか意思疎通ができないから、私にどう囲碁を教えるべきか悩んでいた、と」

「はい、その通りです……」

 うつむいてすっかり縮こまっているシド。心はすでに裁かれる罪人モードである。
 これまでの事情を洗いざらい吐き、あとは来るべき糾弾の瞬間に備えるつもりであった。

「師匠」

 ビクリとシドの肩が跳ねる。
 眼前のシオンはさぞや怒っているだろうと顔を上げるが――、その表情はいつもどおりだった。

「ですが、そのような状況下でどうして私を弟子として受け入れてくださったのですか?」

 どころか、なんだか期待した様子でシドのことを見つめている。
 眼の前にいる少女のことがわからなくなりつつも、シドは素直に答えた。

「最初に会ったとき、オーラが見えるっていっただろ? それが背後霊のことを指してるんだとおもったんだ。で、この背後霊を成仏させるためのヒントが得られないかな、って……」

「ああ……、なるほど。そういうことだったのか……。円転滑脱でいたつもりが、とんだ気随気儘となっていたと……。やはりあそこで日和ってしまったのは痛恨……」

「?」

 むつかしい顔でぶつぶつとつぶやき始めたシオンに、怪訝な視線を送るシド。
 視線に気づいたのか、シオンは慌てた様子で声を張り上げた。

「と、ところで! 背後霊殿との意思疎通についてなのですが」

「ああ」

「あいうえお表を用意して、それを指差してもらって会話すればよろしいので……は……?」

 ポカーンと口を開いて固まるシドに、シオンはおそるおそるといった様子で問いかけてくる。

「ど……、どうかしましたか?」

「シオン」

「は、はい」

「お前は天才か」





 ***





 早速ネットでDLした50音表+数字表をプリントアウトすると、居間の座卓の上に広げた。
 シオンと肩を寄せ合い、背後霊が指差す文字を追っていく。
 姓はキクチ、名はコゴロウ、年齢は21ということだった。職業は軍人。階級は少尉……ということらしいが、軍隊に縁遠い現代っ子のシドにはその辺よくわからない。

「シオン、この名前に心当たりあるか?」

「ない、ですね」

「俺もだ」

 或いは親戚筋にいたのかもしれないが、現状では赤の他人という認識で問題ないだろう。

「……ま、この人の素性についてはこれで置いておこう」

「よろしいのですか?」

「? ああ……」

 シオンの質問の意味がわからなかったが、すぐにシドを気遣ったのだと理解する。
 ふつうに考えれば、得体の知れない背後霊がいる状況など不気味でしょうがないだろう。
 もっと根掘り葉掘り訊いて情報を引き出すべきでは? そういっているのだ。
 その質問はごもっともだし、実際それで悩んできたことも事実。やはり聡明な少女だとおもう。
 しかし――、シドは視線をそっと右肩へ向ける。釣られてそちらを見るシオン。

「俺はかまわないさ。それに、当の本人はすぐにでもシオンに碁を教えたくてしょうがないみたいだしな」

 座卓の横に置かれた碁盤を前にして、まるで子どものように瞳を輝かせているキクチ。
 囲碁を打つ時はいつだってこんな顔をしているのだ。これだから完全に不気味な存在だと思い切れない。
 そんなシドの気持ちが理解できたのだろう。シオンは納得したようにうなずくと、すぐに居住まいを正す。
 碁盤の前に移動すると、膝を折って正座した。シドもまたそれに倣い、対面の席に正座する。
 これまでとは性質の異なる、凛と引き締まった表情のシオンがいた。棋士としての顔。
 ピンと張り詰めた空気の中で、シオンはすっと頭を下げた。

「――よろしくおねがいします」





 ***





 勝負は2日に渡って続いた。
 ぼんやりと盤面を読めるようになったつもりのシドであったが、それすらとんだ驕りであったと自覚するには充分で。
 もはやシドには理解できない領域の打ち合いの果て――、先に頭を下げたのはキクチだった。

『負けました』

 そんな声が聞こえた気がした。
 けれど表情はどこまでも穏やかで、うれしそうで、そのままスゥっとキクチの姿が透けていく。
 シドにほほ笑みながら会釈して、完全にその姿は消えていった。

「ありがとうございました」

 シオンは一礼した。
 上げた顔はキクチに負けず劣らずの、やり遂げた人間特有の穏やかさに満ちている。

「……あの、シオン?」

「なんでしょうか」

「これって、どういうことなんだ?」

「?」

 首をかしげるシオンに、シドは言葉が足りなかったといいなおす。

「あー……、なんでキクチさんが消えていったのか、その理由がシオンにはわかるのか?」

 ハッキリいって状況がさっぱりわからなかった。
 まずこの一局はあくまで互いの力量をあらためて計るためのものだと考えていたのだ。
 それがまさかキクチの成仏につながるなど夢にもおもっていなかった。

「推測でよろしければ」

「たのむ」

「しからば……」

 シオンはこほんと咳払いをすると、滔々と語り始めた。

「私が見たかぎり、あの方の立ちふるまいはプロ棋士のそれではありませんでした。囲碁はあくまで趣味でやっていたのだと思います。けれど、その打ち筋はあきらかに勉強している。それも相当に。おそらくプロにあこがれてはいたものの、生まれ育った環境が許さなかったのでしょう。そんな彼が求めていたのは――」

 一泊置いて、シオンは続ける。

「――好敵手。さすがに身の回りに囲碁を打てる人くらいはいたでしょう。しかし在野にあの方と互角にやりあえるほどの相手がいたとはおもえません。たった一度でもいいから全力で打ちたい。そんな想いがあの方をこの世に現界させた……、というのが私の推測です」

 推測といいながらも、シオンの言葉にはたしかな自信が感じられた。
 そして気のせいだろうか、実感と、どこか羨望が篭められているように聞こえたのは。

「……そうか。しかしキクチさんがいなくなった以上、シオンに囲碁を教えられる人はいなくなっちまったな。これで師弟関係はおしまい、ってことになるのか」

 シドにとっては望んだ状況。けれどシオンにとってはあまりにも割に合わない話だろう。
 結局最後までキクチに囲碁を教えてもらうことは叶わず、下積みという名目でタダ働きさせられて終わったのだ。改めてシドの良心がズキズキと痛み始める。
 囲碁は教えられないが、せめてなにか彼女にしてやれることはないだろうか。「俺になにかやってほしいことはあるか?」と提案しかけたところで、シオンが静かに口を開いた。

「ええ、そうですね。こうなれば私もいい加減に覚悟を決めるべきなのでしょう」

「覚悟……?」

 なにやら決意に満ちた瞳のシオン。やおら碁盤を脇にどかすと、その場からすこしだけうしろに下がり、三つ指をついて頭を下げた。あれ、なんかデジャヴ――

「改めてこれからもよろしくお願いします――、旦那様」

 ピシリとシドの時間が止まった。
 ゆっくりシオンが頭を上げると同時に、ようやく時が動き出す。

「ちょ、ちょちょちょちょちょっとまってくれないか? いったいなにがどうして師匠から旦那様になるんだ? え? え?」

「そもそも初めてこの店を訪れたあの日、私はあなたに告白しに来たのです」

「はぁ!?」

 素っ頓狂な声を上げるシド。

「じゃ、じゃあ囲碁の師匠になってくれってのはなんだったんだ?」

「とっさに口から飛び出しました。もちろん棋士として自分より格上だと尊敬はしていましたが、あくまでも倒すべき相手としてです」

 瞳の奥でメラメラと燃える闘志の炎に断じてウソはない。
 これだけで囲碁の師匠がいなかったという理由がよくわかってしまった。
 シオンにとって囲碁とは純然たる勝負の場なのだ。己の才覚と実力だけで挑むことに価値を見出している。

「ようするに、いざ告白の瞬間になって日和ってしまったのですよ。我ながらなさけない……。けれど見方を変えれば好機でもありました」

「……というと?」

「師弟関係を結びさえすれば、いずれにせよ誰はばかることなく逢瀬を重ねられるではありませんか!」

「ああそう……」

 シドはなんだかどっと疲れた気分だった。だからといって決して偉そうなことをいえる立場にないが、シオンもまた大概な少女であったようだ。

「ですが私のその場しのぎの言葉のせいで、旦那様に無用な期待を持たせてしまったことは痛恨の極みでした。申し訳ございません」

「それについては……うん、俺も師弟関係を利用しようとしたわけで。お互い様ってことでいいんじゃないかな。かな? かな?」

 頭を下げるシオンを制すると、シドは半ば気まずさをごまかすように問いかける。

「……なんで俺に告白しようとおもったんだ? チャットしてただけで、なにか惚れられるようなことをした覚えがないんだが」

「合縁奇縁。恋に理屈を求めるのは野暮かとおもいますが――。強いていうならば、まさにそのチャットがキッカケです」

「それこそ特別なことを書いた記憶はないぞ。毎日テキトーにダベってただけだろ?」

「気兼ねなく会話ができて、それが心地良く感じられる。これ以上に人生の伴侶として必要な素養がありますか?」

「そういうもんなのか……。で、さっきから伴侶だとか旦那様だとかいってるけど、それはまさか本気じゃ……ないよな?」

「もちろん本気です。この東堂シオン、半端な気持ちで殿方に求愛することはありません!」

 くわっ! と目を見開いて断言するシオン。あまりの男らしさに目眩がしてきた。

「それに」

「そ、それに?」

「東堂家の女には、裸を見せた相手は殺すか愛すしかないという家訓があるのです」

「なにそれこわい!」

 どうなってんだよやべーな東堂家! ……というか待てよ?

「……あの日バスタオル巻いてこなかったのは確信犯だったのか!」

「はい。あわよくばあのまま一気に決着をつけるつもりだったのですが、結果はあの通り……。重ね重ねなさけない。私もまだまだ修行が足りません。ですが収穫もありました。無防備に寝ていた私に手を出さなかった、その紳士さ……すばらしい! まあ正直にいえば手を出してもらったほうがよかったんですが。それでもすばらしい! あらためて惚れ直しました!」

 まったく悪びれないシオンの様子におののくシド。
 ここまで来ればいやが上にも気がついてしまう。己がトンでもない相手を引き当ててしまったことに。
 この娘は本気だ。本気で、シドを人生の墓場に引きずり込む気だ。

「ま、まだ中学生だろ? そんな簡単に将来の相手を決めていいのか?」

「戦国の世であれば、10代前半で婚姻を結ぶなど珍しいことではありません!」

「うん……、ぶっちゃけその返答はなんとなく想定してたわ。あと今は21世紀だからな?!」

「それならそれであと2年ほど待てばよろしいだけです! というわけであらかじめ婚姻届を書いておきましょう! ここに用意してありますので、さあ一筆!」

「絶対に書かねえよ!」

「ところで、私の胸を揉みましたよね?」

「ばっか、あれは不可抗力であって」

「ほう、あてずっぽうでしたが、そうですか、そうだったのですか」

 にやりと笑うシオンに、シドはあっと口を押さえる。しかし後の祭りだ。
 状況は圧倒的に不利。ふたりきりの密室下、意識がない年頃の少女の胸を揉んだ――。事案発生である。
 これを種に強請って、婚姻届に一筆書かせる気か? シドの警戒心がマックスレベルに跳ね上がる。
 しかしシドとは対照的に、シオンは楽しそうに話を続ける。

「なに、簡単な推理ですよ。裸の私を抱き上げれば、必然的に片手が私の肩のあたりにくるでしょう。そのときに胸を触ってしまったのなら、それは不可抗力だと自分に"言い訳"することが出来る……。いえ、べつにそれで旦那様を責める気は毛頭ありません。むしろ、そう……、胸を揉まれたことにホッとしているのです」

 予想外の言葉、シドは眉をひそめる。

「……どういうことだ?」

「そうですね、端的にいわせていただけば……」

 そっと胸元に手を添え、ほほえむシオン。身構えるシドだったが、次なる言葉であっさり足元がふらついた。

「あなたがお望みであれば、いくらでも婚前交渉に応じるつもりだということです」

 婚前交渉、それってつまり――。なんだかんだでガン見していたシオンの裸体が生々しく脳裏によみがえる。
 ハリのある肌。膨らみかけの乳房。引き締まりつつも女性的な柔らかみを帯びた肢体。

「旦那様からちゃんと女として見られていることがわかって、心の底から安堵しました。あ、もちろんまだ生娘ですのでご安心を。まだまだ成長途中の未熟な身体で満足できないかもしれませんが……、それはそれで青い果実を堪能できてお得だとおもいますよ?」

 揺れる。揺れる。頭の中がシェイクされる。
 なにをいってるんだこいつは。だがしかし一理あるのではないか。いやねーよ。
 シオンはいうまでもなく極上の美少女である。それにこんなことをいわれて揺れぬわけがない。

「どうです旦那様。悪い話ではないとおもいませんか?」

 気がつけば傍らにシオン。葛藤のあまり動けないシドの右手を取ると、それを自らの左胸に押し当てた。
 やわらかい感触。ゴクリと、シドが生唾を飲み込む。シオンは年齢不相応な艶然とした笑みを浮かべている。

「こんどは"言い訳"なんか必要ありませんよ。なにもかも、あなたのお好きなように――」

 流れるようにシドの胸元へしなだれかかるシオン。甘い匂いが鼻孔をくすぐり、頭の中が真っ白になっていく。
 シドの両手はシオンの両肩をつかみ、正面から向き合った。潤んだ瞳が近づいていくる、いや、シドが近づいているのだ。
 瞳が閉じられ、いよいよ唇と唇とが重なり合い――

「――ッ!」

 かけた瞬間、シドの脳裏にひとりの少女の姿がよぎった。
 シオンの身体を自分から引き離すと、内なる欲望に反逆するかの如く、全力で啖呵を切った。

「ぐ、ぐぐ……! 俺を舐めるなよシオン! 七つの大罪を統べる偉大なる大悪魔の眷属たる俺が、そんなチャチな色仕掛けに引っかかるか!」

 まさかここでシドが踏みとどまるとはおもっていなかったらしく、ここに来て初めて動揺の表情を見せるシオン。
 だがすぐに表情を引き締め、負けじと声を張り上げた。

「むむ……、さすがに一筋縄ではいきませんか……。しかしそれでこそ私の旦那様! 絶対にあきらめませんよ!」

 それから一昼夜にわたって押し問答はつづいた。
 日が昇り、陽光が室内を照らしはじめたところで、シドは枯れかけた声を絞り出す。

「よし……、よし……、わかった……。これからも朝食作りは続けていい。そこが俺の妥協点だ」

「休日にお泊りは」

「ダメに決まってんだろっ……!」

「ふむ……。これ以上はムリ……、しかたありませんね。妥協しましょう」

「ああ、そうしてくれ……。俺はもう限界だ……」

 いきなり現れた背後霊に対する不安でいっぱいいっぱいだったシド。
 ようやく解放されたと気が緩んだ直後、真面目だとおもっていた少女がまさかの大変貌。
 立て続けに起こった突発的事態に、シドの精神はすでにボロボロであった。そしてトドメの問答。もはや精魂尽き果てた。
 力尽き、店のテーブルに突っ伏すシド。どうして2階の居間にいたのに1階の店部分に移動しているのか――。それすらいまのシドにはわからない。
 が、どうでもよかった。

「これだけ疲弊した状態でもたいした譲歩を得られないとは……。さすがの胆力といったところか……。なにより婚前交渉が通じなかったのにはおどろいた……。しっかりとした貞操観念を持っていることはよろこばしいことだが……、個人的には残念至極……。行為そのものに興味がないといえばウソになるし、なにより愛した人と繋がりたいとおもうのは当然の欲求だ……。まあ、だからといって私の身体に欲情しなかったわけでなし、それを知れただけでも収穫としておこう……。いまのところほかに女っ気はないようだし、時間さえかければ……」

 テーブルの向こうでブツブツ呟く少女の言葉も、いまのシドには空気の振動でしかない。
 にしてもすごいことを口走ってる。なんだかんだでシオンの体力も限界だったのかもしれない。

「そういえば、先ほど口走っていた"悪魔の眷属"とは一体どういうことだったのだろうか……? 悪魔といえばアロマゲドンの……。いや、まさかな。まさか……」





 ***





 すっかり日焼けしたあろまは、久々の椏隈野商店へ向かって歩いていた。
 隣には同じく帰省から戻ってきたみかんもいっしょだ。
 人っ子一人いない灼熱地獄のような炎天下の中、あろまは不意に声を張り上げた。

「すぅ……我は悪魔なり! 汝らを呪ってやるぞ! ……どうだみかんよ。一週間ぶりにやってみたが、ちゃんといつものキャラにもどっておるか?」

「きっとだいじょうぶなの!」

「うむ、ならばよし! さすがに両親や祖父母らの前でキャラを作り続けるわけにもいかぬからな……。素のキャラでアイドルをやっているシオンらが、この時ばかりはうらやましい……っと、店に着いたか」

 店の前。肩に下げたポーチからハンカチを取り出すと、あろまは汗を拭う。汗臭いのはこの際しょうがないとしても、汗まみれの顔を少年に見られたくないという乙女心だ。

「ほれ、みかんの汗もぬぐってやる。眼をつむれ」

「はーいなのー」

 そういってハンカチで拭ってやるが、あろまにくらべるとほとんど汗をかいていない。あいかわらずの健康優良児っぷりだ。
 さて、いよいよシドと再会だ。帰省ともろもろの事情でおよそ2週間ぶりだ。妙にドキドキしてきた心臓を落ち着けるために深呼吸すると、右手で髪の毛を軽く整えた。いざ行かん。
 引き戸を開けると、エアコンの冷たい空気が流れ込んで来た。おもわずだらしなく緩みそうになる表情を引き締め、あろまは声を張り上げる。

「デービデビデビー! 悪魔が地獄の底より舞いもどってきたぞ!」

「ジェルジェルー! 天使もやってきたなのー!」

「くくく、ひとりさびしく店番をしていた汝のために、たくさんのみやげ話を用意してきてやった……ぞ?」

 何故かぐったりと突っ伏しているシドの姿があった。
 それもいつものレジにではなく、テーブル席にいるというのがよりミステリアスだ。
 あわてて駆け寄るあろま。横に立ってシドの肩を揺する。

「ど、どうしたのだシドよ! なにがあった!?」

 のっそりと顔を上げるシド。あろまが来たことにようやく気づいたという様子だった。

「……あろまか、ひさしぶりだな」

「う、うむ。ひさしぶりだな我が眷属よ。それで、一体なにがあったのだ?」

「なにが……」

 途端、遠い目をするシド。それだけでよほどのことが起きたのだと察することができた。

「シドよ、我から訊いておいてなんだが、汝が話したくなければ……」

「いや、話すよ。でもその前に……」

 グイッと右手を引かれ、ぽすんとなにかに受け止められた。

「あー! いいなー、なのー!」

 みかんの声が遠い。
 遅れて、あろまはシドに抱きしめられたことに気がついた。瞬間的に顔が真っ赤になる。

「ふえ!? え? え、え? ななななななにをやっておりゅのだ!?」

「ああ……、あろまは本当に癒されるなあ……。かわいくてやわらかくて温かくて……、うん、癒される」

 なにやらシドはいっているが、あろまはそれどころではなかった。たくましい腕にがっしり抱きしめられ、やかましいほど高鳴っている心臓。初めて間近で嗅いだシドの体臭に、くらくらする頭。このままではよくわからないがマズイと、削られつつある理性を総動員して口を開く。

「し、シドよ、我としてはこのようなこういもやぶさかではないというか、むしろばっちこいというか……。し、しかしだな!? 物事にはこう順序というものが……」

「お前がいなかったら、今ごろあいつの色仕掛けに負けて人生の墓場へゴーだったよ……」

「……む?」

 "あいつ"? "色仕掛け?" 聞き捨てならない言葉が飛び出したような気がした。
 急速に冷えていくあろまの思考。冴え渡る乙女の勘。
 なにか、よくわからないが、自分にとって非常に不本意な事態が起きたのではないか。

「一体なにがあったのだ?」

 いまはとにかく情報を集めるべきだ。途端、冷静になったあろまの様子に気づくことなく、シドは心底疲れ果てた声で応じる。

「昨日まで背後霊がいてさあ……」

「ま、まだいうか!? もうその手はくわんぞ!」

「いやいやそれがマジでな……。で、囲碁の弟子を取ることになったんだが、それがどういうわけか実は俺の嫁になるための偽装で……」

「ほんとうにどういうわけだ!?」

 ぎょっとするあろま。どうツッコめばいいのかわからない。
 これ、シドは単に錯乱しているだけなのではないか? しかし乙女の勘は未だに警告を発している。どうしたものか、逡巡する。

「わるいなあろま、あの時はからかってさ……。もう背後霊は勘弁だ……。いなくなったとおもったら特大の爆弾を残していきやがって……。いや俺も悪いんだけどさあ……」

 ひとまず――、この様子ではまともに話を訊き出すのはムリだろう。ただひとつハッキリしているのは、シドが相当に弱っているということだ。
 ならばこのような状況で悪魔が取る行動はただひとつ。

「シドよ……、汝はつかれておるのだ。今日はもう店をたたんで休もう、な?」

 両手をシドの背中に回し、自分でもおどろくほどやさしい声色でそういった。
 そう、悪魔なら弱みにはつけこむものだ。
 決して弱ってるシドを支えたいなんていう献身的な気持ちからの行動ではないし。ましてやシドを自分から抱きしめるための方便などではない。
 あろまには何がどうしてこうなったのかさっぱりわからない。
 しかしシドの言葉を信じるのなら――、苦手な背後霊にいまだけはちょっぴり感謝だった。





 〆



















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