フリースローライン手前、バスケットボールをすっと頭上に掲げた。
 直後、強烈なプレッシャーが全身を打った。敵のギラついた目と、仲間の期待に満ちた目。
 体育館にいる人間すべての様々な感情が、突き刺さるような視線となって彼――椏隈野シドに注がれていく。
 55対55。4度の延長でも決着はつかず、フリースローのサドンデスにもつれこんでいた。
 この一投ですべてが決まる。勝っても負けても、それで終わり。気取られないようにゆっくり深呼吸する。

(……空気に飲まれるな)

 己に言い聞かす。フリースローの練習なんてこれまで腐るほどやってきたはずだ。
 余計なことは考えるな。ただ思い出せ。お前はいつもどうやってボールを投げてきた。いつもは――、そう。
 気がつけば、シドはボールを放っていた。いつもどおりの曲線を描き、いつもどおりにバスケットゴールをくぐり抜けた。
 ボールが床を跳ねる音。遅れて、体育館を揺るがさんばかりの大歓声が巻き起こった。
 シドはチームメイトたちに抱きつかれ、もみくちゃにされる。

「よくやった!」

「さすがは俺たちのエースだ!」

 観客席からも大声が響いてくる。

「優勝おめでとー!」

「椏隈野ー!」

「お前ならやってくれると思ってたぞー!」

 次々とかけられる賞賛と労いの言葉。それに対して笑顔と謙遜で返す。
 この瞬間――、まちがいなく椏隈野シドの青春は輝いていた。そう、輝いていたのだ。キラキラと――。プリズムのように――。





 ***





 大きなあくびが出た。
 とっさに出入り口へ視線を向けるが、お客さんが来る気配はなさそうで安心する。
 或いは、それこそ最も憂うべき事態なのかもしれないが。

「ま、来なけりゃ来ないでいいさ……。接客しないで済むから楽だし……」

 およそ接客業の人間としては不適切な発言と共に、シドはふたたびあくびをした。
 カウンターに左肘を立てると、そのまま頬杖をつく。
 猫のひたいほどの小ぢんまりとした店内。棚には洗剤や文房具、お菓子など種々雑多な生活用品が並んでいる。
 店の名前は『椏隈野商店』――。いわゆる万屋だ。
 もちろんなんでも屋の方ではない。コンビニの前身みたいなもの、といえばわかるだろうか。
 かつては日本全国に存在していたそうだが、コンビニの登場によって次々駆逐されていったそうだ。
 かろうじて生き残っているこの店にしたところで、客はほとんど近隣のコンビニに奪われ、閑古鳥が鳴いていた。
 創業90年とムダに歴史だけはあるが、100年目を迎えられるかどうかは非常に難しいというのが実情だろう。
 節電のための薄暗い照明が、ただでさえ古びた内装をますますわびしく見せる。
 現実から逃避するように目線を落とせば、今日び珍しい打ちっぱなしコンクリートの床。

「――灰色だ」

 ぽつりと、つぶやきがこぼれる。

「灰色の青春だ」

 四人。この三日間でやってきたお客さんの総数になる。
 入院した祖父の代わりに、店長代理として入る前は厄介な客が来やしないかと内心ビビっていたが、それ以前の問題だった。
 居心地の悪さと同時に、焦躁感がシドの胸にこみ上げてくる。

(まずいな……)

 またぞろ埒のない考えに囚われ始めてしまったことを自覚する。
 退屈を誤魔化すのもいよいよ限界だった。
 これならクレーマーでもいいから来てくれたほうがよっぽどマシだ。いやごめん、さすがにクレーマーは勘弁してください。
 さしあたり三日連続でセブンスターを買いに来たおそらく常連のオッサンよ、早く来てくれ……!
 そんなシドの切実で利己的な祈りが通じたのだろうか――、店の引き戸(なんと自動ドアですらないのだ)が開いた。
 待望の客。シドは笑顔とともに歓迎する。

「いらっ……」

 「しゃいませー」という言葉は、しかしそれ以上に大きな声でかき消された。

「はーっはっはっは!」

 高笑い。扉の向こうからあらわれたるは、ひとりの女の子。
 肩まで伸びたウェーブのかかったブロンドヘア。八重歯が覗く口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
 釣り上がった青い瞳が印象的な、かわいらしい女の子がそこには立っていた。

「マスターよ! こよいもまた地獄の底より我がこうりんしたであるぞ! くくく、あいもかわらず悪魔たる我にふさわしいさびれた店がま……え……」

 そこまで口にしたところで、女の子は固まった。
 ようやくシドの存在に気がついたらしい。気まずい沈黙が店内に落ちる。

「えーっと……、いらっしゃいませ?」

 シドが沈黙を破ると同時に。カーっと、女の子の顔が見る間に赤く染まった。





 ***





 レジの俺から見て左奥に置かれたテーブル、そこに女の子は座っていた。
 なるべくぶしつけな視線にならぬよう気をつけながら、シドは女の子を観察する。
 あの制服はパプリカ学園小学部の生徒が着るものだった、はず。
 しかし肩にかけている黒いケープは見たことがない、おそらくあの娘なりのオシャレなのだろう。
 頭にはカチューシャをつけており、コウモリの羽……だろうかを模したアクセサリーがついていた。
 うつむいているので顔はよく見えないが、時おりチラチラとこちらに視線を感じる。

「お友だちと待ち合わせかい?」

「えっ!? あ……、うむ……じゃなくて、はい」

 女の子は顔を上げると、すぐにまたうつむいていってしまう。けれど、眼だけはおずおずとシドを見つめている。

(……ふむ)

 改めて、釣り上がった青い瞳が印象的な女の子だった。
 いまは"かわいらしい"という言葉が似合うが、ここから順調に育てば将来さぞや美人になるだろう。
 しかし店に来た直後とはまったく様子がちがう。元来人見知りが激しいタイプなのかもしれない。
 口ぶりからして常連。祖父に対してそれだけ心を開いていた、ということなのだろう。となれば、やはりこの娘がそうなのか。
 訊かれるまで黙っているべきか迷っていたが、これは自分の方から話しておくべきだろうと、シドは口を開いた。

「ちがってたらすまないんだが……、もしかして君は黒須あろまさんかい?」

「……え?」

 目を見開く女の子――黒須あろまに、「やっぱりか!」と膝を叩くシド。
 別人だったら気まずいどころじゃねーなと内心ドキドキしつつ話しかけただけに、おもわず大げさに喜んでしまった。
 おっと、それよりまず説明しなければなるまい。緊張した面持ちのあろまに、シドはせめてもの笑顔と共にいう。

「うちの祖父さん……。ああ、いつもいる店長からいろいろと言付けをもらってたんだ。その中に、君と……白玉みかんちゃんのこともあってね」

 「ちょっと変わってるが悪い娘たちじゃない。決して邪険にあつかうな。もてなせ」と、そりゃもう耳にタコができるくらい念押しされたのだ。
 息子と孫息子しかいない祖父からしてみれば、かわいらしい孫娘ができたみたいでよほどうれしかったのだろう――。シドはそう推測していた。
 実の孫としても、老い先短いジイさんの口慰みにつきあってくれた女の子を決して無碍にはあつかえない。
 というわけで、この店をあろまにとってふたたび居心地のいい環境にすることは急務だった。

「だから、いつもどおり楽にしてくれてかまわないよ」

 このまま俺への警戒心がまるっと解けてくれれば楽なのだが……。
 しかしそんなシドの過分な期待とは裏腹に、あろまはうつむいてしまった。平坦な声。

「じゃあ……、お兄さんはぜんぶ知ってる、ってことですか?」

「え? あー……」

 言付けをされたのは事実だが、ぜんぶ知ってるかといわれればもちろんNOだ。
 あらためて知っていることを思い出すシド。せいぜい名前と、常連さんであることくらいしか聞いてない。
 よくよく考えるまでもなく、これではまったくなにも教えてもらっていないのと変わらなかった。
 せめて身体的な特徴くらい教えろよ祖父さん。もっとも、そのことにいま気づいた己もたいがいマヌケなのだが。
 いずれにせよ、この場ではぜんぶ知ってることにしたほうが親近感を得やすいのではないか。

「まあ――、だいたいの事は訊いてるとおもうけど……」

 そんな皮算用から言葉を濁すシド。が、その言葉にあろまの顔はますますうつむいていく。

(まずったか……!?)

 背中にイヤな汗がにじむ。
 これはあれか、『わたしたちだけの秘密だよ!』みたいな、そういうノリのアレがあったりしたのではないか。
 すまねえ祖父さん――、常連さんのひとりを失うことになるかもしれない。
 来るべき破綻に備えて覚悟を決めようと考え始めたその矢先。あろまが突如として高笑いを浮かべた。

「はーっはっはっは! ならばかくし立てすることもあるまい!」

 そういってパイプ椅子の上に立ち上がるあろま。
 さっきまでまとっていた気弱そうな雰囲気は消え去り。口元には不敵な笑みを浮かべている。
 両手で弓をひくようなポーズを取ると、その言葉を大きな声で唱えた。

「デーモンデーモンデルデルビー!」

 ぽかんとするシドに、まくし立てるようにあろまは続ける。

「我こそは66万12年という悠久のときを生きる地獄からの使者。黒須あろまよ! 人の子よ、我におそれおののくがよい!」

 わーっはっはっは! と笑うあろまを唖然と見つめるシドだったが、ふと冷静になる。
 店を訪れた時がまさにこんな感じのキャラだったじゃねーか。
 俺に対する警戒心をそれだけ解いてくれた――? シドとしてはそう期待したいところだが……。

「……なあ」

「なんだ人の子よ。とくべつに我とはなすことを許可してやろう」

「そりゃどうも……」

 腰に手を当て胸を張る姿は、だれがどう見ても威風堂々としたものだ。
 が、シドにはなんだか引っかかるものがあった。

「ふふん、我は心のひろい悪魔だからな。で、なんだ。はやくいえ」

「ちょっと無理してない?」

「……」

「……」

 あ、一気に顔が赤くなった。と思ったらふたたび弓をひくポーズを取りはじめた。

「で、デーモンデーモンデルデルビー!!」

 「ごまかせてないぞ」といいたいところだったが、さすがにもうツッコまなかった。
 つまりはそういうキャラ作りなのだろう、なにもいうまい。
 焦りの色を浮かべながら、尚もいじらしくキャラを維持しようとするあろまに、シドは付き合うことにした。

「汝のいってることはまったくもって理解できぬが、ひとの身で悪魔たるわた……我を理解しようとするそのしせいだけはほめてやろう!」

「はあ……、お褒めにあずかり恐悦至極に存じます」

 ペコリと頭を下げるシドに、目を見開いて一瞬固まるあろま。
 しかしすぐにハッとした表情を浮かべ、「う、うむ。苦しゅうないぞ!」と何度もうなずく。

「そして我を悪魔としってなおへいぜんとしているその胆力……。うむ、きにいった!」

 ビシっとシドを指差すと、あろまは力強く宣言した。

「汝はきょうかから我の使い魔だ!」

「――は?」

 あっさり素にもどるシド。対照的にあろまのテンションはうなぎのぼりだ。

「よろこぶがいい! 我ほどの上級悪魔の眷属となれば、キサマの未来は漆黒の闇に彩られた陰惨で凄惨な地獄への片道キップとなろうぞ!」

「それのどこに喜べる要素があるんだ……!?」

 問いかけるが、あろまは「はーっはっはっは!」と呵呵大笑している。聞いちゃいねえ。
 しかし――、どことなくヤケクソじみて見えるのはシドの気のせいではないだろう。

「眷属になったからには、我の名をよぶことを許可してやらねばな。あろま、とよぶがいい」

「眷属になるかはともかくとして……。えーっと、様付けしなくていいのか?」

「かまわぬ。ざんねんながらこの世は無知蒙昧なやからばかりだ。みかけは年下の我に様づけなどしているところをみられたら、汝の立場もなかろう?」

 おそらく即興でかんがえた設定なのだろうが、なかなかどうして世知に長けている。
 他人に笑って済ませてもらえるラインをちゃんと把握しているようだ。
 おもわぬ利発さにシドが感心していると、あろまはすこしうつむき気味にこちらを見つめ始めた。

「それで……、汝の名はなんていうんですか……?」

 上目遣いでこちらを見やるあろま。ついさっきまであった虚勢もすっかり消え去っていた。
 いや、本人的にはいつものキャラを維持しているつもりなのかもしれないが。口調が崩れてるぞ。
 不安げな瞳に見つめられながら、そういえばまだ名乗っていないことにシドは気がついた。

(こりゃまた失礼なことをしちまったな……)

 ホストがゲストに名前を告げるのは基本である。
 代理とはいえ店長たる己が、お客さん――、それもずっと年下のあろまに気を使わせてしまうとは。痛恨のミスだ。
 そんな後悔が表情となって顔に出てしまったのだろう、慌てて声を張り上げるあろま。

「わ、我が汝の名前をしることで主従契約は完了となるのだ! さあ! つげるがよい!」

 どうやら、自分の説明不足でシドが気分を悪くしたと勘違いしてしまったようだ。
 また気を使わせてしまった。ふたたびのミスに舌打ちをしそうになったが、さすがに堪えた。
 こうなったら、せめてあろまの期待に答えるべきだと決意する。
 かくしてシドは名乗りを上げる。意味が通じるかはわからないが、ちょっとした茶目っ気も織り交ぜて――。

「俺の名前は椏隈野シドだ。あろま、コンゴトモヨロシク。あ、俺もシドでいいぞ」

「――! うむ! これにて我らの主従契約はむすばれた! すえながくつかえるがよいぞ! シド!」

 パアッと喜びに顔を輝かせたあろまは、それはそれはかわいらしかった。
 その表情にほっとしながら――、これからは退屈しなさそうだなと密かに考えるシドであった。

 ……で、使い魔ってなにをやればいいんだ? 八艘飛びでもすればいいの?



 



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