イツキの朝は早い。
 まだ日も昇りきっていない時間に起き出すと、洗顔と歯磨きを済ませて寮の外に出る。
 朝焼けの下、柔軟体操をしてからジョギング開始。泊地を軽く流し、筋トレとも終えて寮にもどればすっかり朝の8時だ。
 シャワーを浴びて白い軍服に身を包めば、いつも通り狙ったかのごとくタイミングで部屋を訪ねるエンタープライズを出迎える。

「おはよう指揮官。それじゃあ食堂へ行こうか」

「うん」

 食堂でテーブルを向かい合わせて、その日のメニューの感想を言い合いながら朝食をとる。
 この日はいなかったが、たまにラフィーが顔を出していることもあり、その場合は三人でテーブルを囲む。
 ちなみにラフィーの朝食は特別メニューで、主食の赤ワインと副菜の赤ワインと汁物の赤ワインだ。
 ……というのは嘘で、ちゃんとイツキたちと同じメニューを食べる。もちろんドリンクは赤ワインだが。
 朝食を済ませれば、そのままふたり連れ立って執務室へと向かう。

「うーん」

「どうした指揮官」

「この部屋にはいつ来ても慣れないな。校長室みたいだ」

 分厚い絨毯と意匠細やかないかにもお高そうな調度品。
 これまた立派なデスクにイツキが萎縮しながら腰掛ければ、エンタープライズは朗らかに笑う。
 まだよそよそしいところはあるが、だいぶ打ち解けてきたのではないかとおもう。

「なに、立場としては同じトップなんだ、堂々としていればいい。そしてトップには相応の義務がついてまわる。さあ、義務を果たそうじゃないか」

 そういってエンタープライズは、左手に持っていた書類カバンをすぐ横に設置された自分のデスクに置く。
 イツキが座っているデスクの前に立つと、背筋を伸ばして敬礼した。それだけで空気が引き締まる。仕事の始まり。

「第一艦隊所属、旗艦エンタープライズより、朝の報告をさせていただきます」

「うむ」

「昨夜から未明に欠けての敵襲は0。今朝もラフィーと共に哨戒を行いましたが、近海に敵影は見当たりませんでした。よって周辺海域に喫緊の脅威は存在しないと判断します」

「わかった。報告ご苦労」

「はっ!」

 もはや儀式といってもいい報告を終えると、エンタープライズは自分のデスクに向かう。書類カバンから書類を取り出すためだ。
 指揮官は己の仕事を補佐するKAN-SEN、秘書艦を任命することが出来る。というか任命しないと仕事にならない。
 現在は自然とエンタープライズがそのポジションに着いていた。

「それでは指揮官、こちらが先ほどの報告を書面にしたもので、本日の決裁書類はこちらになる」

「はいはい……。っと」

 エンタープライズから差し出された書類を、イツキは軽くチェックしてから判子を押していく。
 KAN-SENが都合4人しかいない泊地、戦略的にも重要な場所ではないため、決裁する書類の数も内容もたかが知れていた。

「これは総司令部から……エンタープライズ、どう思う?」

「地方指揮官たちによる合同連絡会議か。もっとも会議とは名目だけで、ほかの指揮官たちと親睦を深めるイベントらしいが……」

「ふーん。それならうちの状況で無理して行く必要もないか。不参加に丸、と」

 それでも最初の頃はこのようにエンタープライズにいちいち確認を取る必要があったが、最近はだいぶ減ったものだ。
 書類の決裁を終えると、エンタープライズが回収して書類カバンに入れる。
 次いでキャスター付きのホワイトボードを引っ張り出した。ボードには周辺海域の地図が貼られている。

「今日の哨戒担当だが、私と助っ人の不知火になる。それぞれの艤装は……巡回海域は……」

 KAN-SENの部隊編成や強化方針の打ち出し、委託要員の選別、作戦地域に関する議論と決定という仕事もあるのだが。
 これもまたKAN-SENが都合4人しかおらず戦略的にも重要でない泊地となれば、やることなんざほとんどない。
 なのでほとんど全てをエンタープライズが決め、こうして指揮官にプレゼンする形になっていた。
 もっともエンタープライズがほとんどすべてを決めている理由はそれだけでもないのだが。

「以上だ。質問や異議はあるだろうか」

「ない。そのようにやってくれ」

「了解した」

 エンタープライズはイツキの言葉に頷くと、ホワイトボードを元の場所に片付けて書類カバンを手に取る。
 ふたたびデスクの前に立って、ビシっと敬礼をする。

「それでは指揮官。私はこれから書類を提出した後、哨戒任務に当たる」

「武運を祈ってるよ。オレも……がんばって勉強してくるからさ」

 複雑な顔でそういうイツキに、エンタープライズは笑う。

「ははは、先生によろしくいっておいてくれ。では」

 執務室から颯爽と出ていくエンタープライズを見送ると、イツキは深く息を吐く。
 部屋に入ってからここまで1時間。作業としても単純なものだったが――、その責任の重さは理解している。
 しかし時間は待ってくれない。イツキは部屋を出ると廊下を抜け、外に出て"学園"と呼ばれる施設まで足を伸ばす。





 ***





 学園というだけあって見慣れた建物が立ち並ぶ中、戦術教室と呼ばれる校舎へ入っていく。
 指定された教室に向かうイツキ。1-3。中学校のクラスが1-3だったと話したら、「じゃあそこでいいじゃないか」と決まったのだ。
 もちろん中学校になど通っていないので口からでまかせだが、実際に通っていたらどうなっていたのだろうか。
 いまさら学校生活に未練はない――。が、それはそれとしてなんだか複雑な気持ちになったことを思い出すイツキ。
 さておき、ようやくたどり着いた教室にはすでに"先生"が教卓に立っていた。

「……おそい。ちこく」

「そっちが早いんだよ、ラフィー……先生」

 教卓に立っているのはラフィーだった。
 KAN-SENたちが持ち回りで先生役をしてくれているのだが、もっぱらラフィーと不知火で、エンタープライズはあまり来ないというのは余談。
 教卓に置かれたレジュメ――これは不知火が作っているらしい――を手に取ると、ラフィーのすぐ前の席に座る。

「……それでは、ほんじつの授業をはじめる」

 眠たい目で宣言するラフィー。
 授業――、指揮官として配属されたイツキだったが、あまりにも知らないことが多すぎた。
 KAN-SENのこと……。艤装のこと……。敵であるセイレーンのこと……。あるいは海上で軍事行動を取る上での取り決め……。基礎的な戦術論……。
 などなど。これら前提知識がなければ作戦行動の立てようもなく。エンタープライズに一任しているのも、そういうわけだった。
 あまりになにも知らないイツキを心配したKAN-SENたちが、教師となって色々教えようという話が持ち上がったのは、着任から三日目のことだ。
 その気遣いだけでもありがたいのに、イツキに教えるために彼女たちも改めて勉強してきているはずで、その労力を思えばますます頭が上がらなかった。
 まあそれはそれとしてイツキは勉強があまり好きではない。好きではないが、この場で居眠りなど出来るはずもない。
 配慮はありがたい。とってもありがたいのだが、つらいのもまた事実であった。ともあれ、最大限の集中力でもってラフィーの授業を傾聴する。

「ほんじつの授業は……、保健体育。……KAN-SENの身体について、授業する」

「はい、ラフィー先生」

「じゃあまず……、プリントを見て」

 レジュメに視線を落とせば、裸の女性の絵が載っていた。うぉう……、とおもわず呻くイツキ。
 イツキはつい最近まで非常に健全な小学生であり、すこしでもアダルトなものは「いけないもの」として遠ざけられてきたのだ。
 テレビも漫画もゲームもろくに見ないやらないイツキにとって、女体は文字どおり未知の存在。
 そんなイツキから見れば、極力性的な雰囲気を漂わせないよう、野暮ったいタッチで描かれた教材の絵ですら、ちょっとした衝撃だった。
 次いでラフィーが女性であるということを思い出し、妙に意識してしまう。――なんだか、気まずい。

「……プリントにあるとおり、KAN-SENと人間の女性の身体に外見上のちがいはない」

「……はい」

 つまりラフィーの身体もこれと――、あらぬ妄想を追い払うイツキ。
 真面目に授業を聞くのだ玖堂イツキよ! 己に活を入れると、淡々と説明を続けるラフィーの声に集中だ。

「けれど指揮官もしってるように、KAN-SENの戦闘能力は人間じゃ比較にならないほど高い……」

 船が揺れるような強風と荒波の中、微動だにせず立っていたことを思い出す。
 敵艦の砲弾が掠ってもケロッとしていたが、あれも人間ではまずありえないことだとここの授業で知った。

「どうして、かは訊かないでほしい。なぜならだれもその答えをしらないから」

「……だれも知らない?」

「ひょっとしたらしってるのかもしれない。でも表にその情報はいっさい出てないから、だれもしらない。そういうことになってる」

 要領を得ない説明。眉をしかめるイツキに、ラフィーは淡々と告げる。

「……ながいものには巻かれろ。よけいな詮索をしないことも、軍人として長生きするコツ」

 いつも通りのしゃべり方なのに、やけに重たい響きだった。
 冷たいものが背筋を走る。言葉を失うイツキを尻目に、ラフィーの授業は続く。

「けれど身体機能に関しては人間とまったく変わらない。食事もするし、排泄もするし、睡眠も取るし、生殖活動をすることも出来る……どうかした?」

 今度はちがう意味で言葉を失うイツキに、ラフィーは不思議そうに小首をかしげる。

「なにかわからないところがあった?」

「いえ、べつに……」

「じー」

 ラフィーがじーっとイツキの顔を見つめる。ますます気恥ずかしくて、つい目を反らす。
 中身はダウナー系アル中戦闘狂だが、外見はまごうことなき美少女だ。
 そんな美少女の口から生殖活動なんて言葉が出たのだ、なんというかこう、無性に気まずかった。

「ラフィーの目を見ない……、あやしい。食事、排泄、睡眠はそのままだから……。生殖活動とは子どもを作ること。性交、セックスともいう。やり方は……」

「そ、そこまでで十分です! わかってます! わかってますから!」

 イツキはあわててラフィーを制止する。
 しかしラフィーの顔を見た瞬間、自分でも正体がわからない気まずさに、ふたたび反射的に目をそらしてしまった。
 マズイ、と思ったときにはもう遅い。

「むー……。まだラフィーから目をそらす。それなら」

 ぴょん、と教卓を軽々飛び越えるラフィーが横目に見えた。
 さすがの身体能力……じゃなくて、いきなりなんだ?
 訝しげに見ていると、パーカーに手をかけて、ふぁさりと床に脱ぎ捨てる。
 タンクトップの裾に手を伸ばしたところで猛烈にいやな予感がして、イツキはおそるおそる声をかけた。

「あの……、ラフィーさん? なにをやってるんですか?」

「……言葉でわからないなら、実技の授業に入る」

「……なんの?」

「セックスの実技。ラフィーの身体をつかってくれればいい……」

 ど直球な表現と共に、これまた男らしくガバっとタンクトップを捲くるラフィー。
 へーラフィーってやっぱりブラジャーしてないんだーそれにおもったよりあるんだー……って冷静に観察してる場合じゃない!
 席から飛び出して、タンクトップを脱ごうとするラフィーを必死に制止する。

「わー! そんなことやらなくていいから!」

「脱がないとできない……。安心して、指揮官は仰向けになってるだけでいいから……。ラフィーも初めてだけど挿れる場所くらいはわかってる……」

「挿れる……?」

 イツキの言葉に、ラフィーの動きがピタリと止まった。

「……指揮官、もしかして、ほんとうに知らない?」

「あ、えっと、その……」

「知らないの?」

「……」

「じー……」

 どうにか誤魔化そうと目を泳がせるイツキだが、ラフィーの疑惑の目線にあっさり根負けした。
 我ながら情けないとおもいつつも、もじもじと言い訳を並べ始める。

「……その、保健体育の授業の日に風邪引いちゃって……ね? いや、裸の男女がなにかするってことくらいはボクも知ってるよ? 知ってるけど……」

 クラスメイトに聞いても教えてくれないのだ。
 教師に聞こうにも、通っていた公立小学校には地元の名士たる玖堂家の影響力が及んでおり、イツキは半ばいないものとして扱われている。
 教科書にも具体的なことは何一つ書かれておらず、自分だけやり方を知らないというのが密かなコンプレックスだった。
 頬が熱い。羞恥心をこらえるように、上目遣いでラフィーを見やるイツキ。

「……って、ラフィーさん?」

 視線の先では、ラフィーのいつも眠そうなお目々が、いつになく大きく見開かれていた。





 ***





 その後はいつも通りお昼まで授業をつづけた。
 気のせいだろうか、教室にはギクシャクとした空気が漂っていたような気もする。
 なお、性交のやり方については結局うやむやになった。
 そうなったらそうなったで無性に惜しいことをしたような気分になるのだから、我ながら天邪鬼なものだ。
 知らなきゃ死ぬような知識ではないので、どうでもいいといえばどうでもいい話なのだが。

「ラフィー、今日の昼食はどうするんだ?」

「……ずっと起きてて疲れたから、ワイン飲んで寝る」

「そっか。今日も先生役ありがとう」

「うん……」

 あい変わらずマイペースな少女である。校舎を出たところで別れると、イツキは食堂に行く。テーブルには見慣れた猫耳。

「あ、指揮官だにゃ!」

「やあ明石。今日のランチはなんだ?」

「Aがサンマの蒲焼きで、Bがアジの味噌煮にゃ!」

「またサンマとアジなんだ……」

 この食堂ときたら、朝昼晩と必ずサンマとアジが出るのだ。
 タダでおいしい飯が食えるだけで非常にありがたい話なのだが、さすがに飽きるというのが嘘偽りのない本音である。

「ほかに魚が入荷しないんだからしょうがないにゃ」

「たまには、お肉が食べたいなあ……」

 チラッチラッと横目でアピールするが、明石はスルーだ。

「指揮官、わがままはよくないにゃ! うーん、お魚おいしいにゃ!」

 どっちがじゃ。という言葉を飲み込みつつ、イツキはBランチをカウンターで注文した。
 明石の正面に座ると、まずはアジの味噌煮を箸で一口。

「うん――、うまいな!」

「指揮官はとってもおいしそうにご飯を食べるんだにゃ。見てるこっちもご飯がおいしく感じるのにゃ」

「家では月2000円渡されてそれで自分の飯を用意してたんだ。調理場もあんまり使わせてもらえなかったから、朝昼晩ちゃんとした料理が食べれて幸せだよ」

「し、指揮官のお家ってどんなところだったのにゃ……?」

「んー? ふつうだよふつう。オレ入れて4人家族の一軒家ぐらし。まあ、オレはひとりだけ離れで暮らしてたけど」

 離れは二畳ほどの建物。倉庫を改造したそうで、床はむき出しのコンクリートの上にカーペットが敷かれ、窓もない部屋だった。

「それってふつうなのかにゃ……?」

「ふつうじゃないかな? むしろ自分の部屋があるなんて恵まれてるっていわれてたよ。実際、妹はオジサンたちと同じ部屋で寝てたし」

 元々の家でも弟は両親と同じ部屋で、イツキだけ別の部屋でひとり寝起きしていたものだ。
 『長男だから親に甘えぐせがつかないように』という理由だった。
 分家とはいえ同じ玖堂の家だから、オジサンの家も同じ教育方針だったのだろうとイツキは己を納得させている。

「オジサン……」

 いつになく思案げな表情を浮かべる明石に、イツキは「おや」とおもう。

「どうかした?」

「なんでもないのにゃ……、ところで妹さんはおいくつだったのにゃ?」

「こんど小学校に上がるはずだから、6歳かな。これからはなにかと入用で困るって、オジサンがボヤいてたなあ」

 加えて己の進学まで控えていた。
 そんなある日、ふだん来ない自分の部屋にやってきてそんなボヤキだけを残していったのだ。
 振り返ってみれば、こんなにもわかりやすい厄介払いの伏線があったことに、いまさらながら気がついたイツキ。
 あれはうしろめたさからの言い訳だったのか、それともイツキに対する楔のつもりだったのか。
 前者ならばまだ救いはあるが、後者ならば――。これ以上考えると飯がまずくなりそうだったので、思考を打ち切る。
 終わった話。そう、なにもかも終わった話だ。

「そうなのにゃ……。ところで指揮官、お給料はどこに振り込まれてるのにゃ?」

「オジサンが用意してくれた銀行口座だよ」

「……通帳とキャッシュカードはどこにあるにゃ?」

「オジサンが預かってくれてるよ。オレは未成年だから代わりに管理してくれるって」

「……なるほど、にゃ。……指揮官、明石のお魚をわけてあげるのにゃ」

「え、いいよべつに。足りなければ自分でおかわりするし」

「たしかにその通りなのにゃ……、にゃにゃ……」

「?」

 なぜだか剣呑な空気を漂わせている明石。
 はて今の会話になにか問題はあったか、小首をかしげるイツキ。
 疑問を抱くも、明石がすぐにいつもの調子で声を張り上げたことで『気のせいか』と片付けた。

「午後は明石といっしょに船の授業にゃ!」

「えー……、艤装の勉強じゃダメ? 昨日も船だったし……」

「そっちも大事だけど、とにかくまずは船にゃ! それとも指揮官は、航行中にトラブルが起きてなにもできず未帰還だなんて、さえない最期を迎えたいのにゃ?」

「そういわれるとなあ……」

 午後は機械に関する授業で、それは明石が一手に引き受けていた。
 工作船というカテゴリーのKAN-SENで、その手のことは専門分野ゆえにだそうだ。
 「さすがにひとりだけ負担が大きくない?」と心配して問いかけたら、「指揮官のお役に立ててうれしいのにゃ!」と元気よく返されてしまった。
 その忠犬ならぬ忠猫っぷりに、イツキはおもわずじーんときたものだ。
 つづく「はやく明石のお店の商品価値がわかるくらい知識をたくわえて、いっぱいお金を落とすのにゃ!」という言葉がなければ、なおよかったのだが。
 なんにせよ午後は船のお勉強だ。ともしなくとも艤装より覚えることが多く、時には実技まであるから大変だった。

「実技、か……」

 先の出来事を思い出して、にわかに頬が熱くなる。脳裏によぎるは、チラッと見えたラフィーの胸。

「指揮官、どうかしたかにゃ?」

 明石の声に、イツキはハッと正気に戻った。雑念を消し飛ばすように咳払いする。

「ご、ゴホン! よーし、午後の授業に向けてしっかり食べておこうか」

「たらふく食べるにゃ。明石のおごりにゃ!」





 ***





 飯をかっ食らった後、イツキは明石と埠頭へ行く。
 いわれるがままに指揮官用の船に乗り、CICの椅子に腰掛けると明石が膝の上に座った。

「……なんで?」

「このCICはひとり用にゃ。明石の居場所がないからしょうがないんだにゃ」

「たしかに狭いけど、もうふたり分くらいのスペースは充分あるし、パイプ椅子でも用意すれば……」

「いいから目的地の座標をセットするにゃ! 沖合にゴーにゃ!」

「うーん……、了解」

 押し切るように明石。
 釈然としないものはあるが、膝の上に乗られて困ることもないのでイツキも流す。
 やわらかい感触に、こいつも一応は女の子なんだなあとぼんやり考える。

「指揮官、なにかんがえてるにゃ?」

「明石も女の子なんだなあ、って」

「にゃにゃ!? そんなのあたり前にゃ! 明石のことをなんだとおもってたにゃ!」

「わるいわるい。明石はかわいい女の子だよ」

「テキトーな言葉でお茶を濁そうたってそうはいかないにゃ! まったく指揮官ときたら……」

「だからわるかったって」

「〜♪」

 ぼんやりとした意識下での会話。
 気がつけばなぜかごきげんな様子の明石を膝に乗せたまま、船に揺られること20分。
 沖合の設定したポイントに到着した。

「にゃにゃ、到着したにゃ! それじゃあ、CICから出て艦橋にあがるにゃ!」

「……ん、了解」

 まずいな、先の実技からちょっとおかしいぞ。
 膝の上から明石がどいたのを確認すると、イツキは頬を両手で叩いて活を入れる。いつまでもぼんやりなんてしていられない。
 そのまま明石に先導されるまま艦橋に上がれば――、絵に描いたような操舵輪があった。

「今日の授業は船の運転にゃ。泊地に接岸するのにゃ」

 イツキはうなずく。明石指導のもと、すでになんどか経験済みだ。
 操舵輪に手を伸ばす。

「ちなみに各種センサーはすべてOFFにゃ」

「……は?」

「ついでにオートパイロットもすべてOFFにしたにゃ。完全手動の目視運転で着岸するのにゃ」

「……は?」

「それじゃあレッツゴーにゃ!」

 固まるイツキを無視して、明石がスロットレバーを押した。
 フルスロットルで動き出す船。ようやくイツキの思考が動き始める。

「じょ、冗談だろ!?」

「冗談じゃないにゃ、さあしっかりと集中して運転するのにゃ!」

「おいおいおいおい! いくら駆逐艦より小さくても100フィート級の船でしょ!? このサイズの船をひとりで運転することはふつうないってキミから習ったんですけど!?」

「それがどうしたにゃ! こんなおもちゃに指揮官乗せて出撃させる時点でろくでもない戦場なのにゃ! 助けなんて期待しちゃダメなのにゃ! どんなトラブルが起きても自力でたいしょできるようにするんだにゃ!」

 CICの各種センサーと自動運転はすべてOFF。
 艦橋の操舵室に上がって、計器とガラスから見えるわずかな視覚情報で接岸しろ。波の荒い海。100フィート級の船を、ひとりで。
 無茶ぶりもいい加減にしろと叫びたい気分で胸いっぱいだったが、明石曰く『できるように設計されている』のだそうだ。

「心配するなにゃ! この船は指揮官がひとりで運転できるように徹底してカスタマイズされてるのにゃ! しっかりと使いこなせば問題ないのにゃ!」

「そうはいっても……」

「ちなみにぶつけて穴でも開けたら修理代に億はくだらないかにゃ。もし座礁とか転覆でもしたらサルベージ代もろもろで三桁億はいくかにゃ」

 ピタリと固まるイツキ。ギギギと明石に顔を向ける。

「……それ数字盛ってない?」

「貴重な指揮官が乗る船だにゃ? 最新鋭技術の塊なんだからそれくらいして当然にゃ」

 もちろんイツキが身銭を切るわけではないだろう。
 しかしこの泊地の運営維持費をどこがどのように捻出しているのか考えれば――ぶわっと汗が吹き出た。

「さあ、ちゃんと集中して運転するのにゃ。ゴーゴーにゃ!」

 波を捉えろ。風を読め。俺ならやれる! というかやらねばならぬ!
 意識が先鋭化する。船を運転するために必要な情報以外、脳からシャットアウトされる。
 この時、玖堂イツキの集中力はまちがいなく人生最大値を記録していた。

「ま、この泊地で修理する分にはタダみたいなもんだけどにゃ」

 つぶやく明石の言葉は、すでに耳に入っていなかった。





 ***





 岸壁が見えてきた時点で、明石が艦橋から下りて先導してくれた。
 どうにかこうにか接岸を終えると、イツキはふらふらとした足取りで船から降りていく。
 埠頭に降り立ち、明石の傍に移動するとそのままガクッと膝から崩れ落ちた。

「て、手伝ってくれるんなら最初からそういってよ……。ムダに神経削ったぞ……」

「それじゃ緊張感に欠けるにゃ。なんどもいうけど、この船に乗って出るような戦場はろくでもないもんだにゃ。せいぜいさっきの緊張感を忘れないようにするんだにゃ〜」

 つまるところ、この船が出るような切迫した状況を明石なりに擬似再現したということだった。
 明石にいわれるまでもなく忘れることはないだろう。指一本うごかしたくないほど(主に精神的に)疲れ切っているが、左手に巻いた腕時計を見る。

「そろそろエンタープライズたちが帰ってくる時間だ……」

「にゃ、お出迎えするのにゃ? じゃあ、船は明石がドックまで運んであげるにゃ〜」

「よろしく……。と、今日も授業ありがとう」

「感謝の気持ちは現物でよろしくにゃ!」

 ふたたび海を走る明石。船はその後を追ってゆっくりと走り出す。そのままドックまで先導してくれるのだ。
 イツキはよっこらせと立ち上がると、居住まいを正す。ちょうど夕焼けの向こうに人影が見え、イツキは両手を振った。
 大柄な影――エンタープライズもイツキに気がついたようで、右手を振り返す。もう片方の小柄な影――不知火も控えめに手を振って応じる。
 海を走るふたりに、イツキは埠頭から声をかけた。波の音に声をかきけされぬよう、大声で。

「おかえりー、ふたりともー!」

「ただいま指揮官、いつも出迎えに来てくれてすまないなー!」

「不知火も、おかえりー!」

 力強く応じてくれるエンタープライズとは対象的に、不知火はあいも変わらず控えめに手を振るにとどまった。

「エンタープライズ! 先に執務室に行って待ってるぞー!」

「ああ、なるべくすぐ報告に行く! 待っててくれー!」

 ふたりが第一ドックに入っていくまでを見届けると、イツキはそのまま執務室がある本棟へと歩き出す。
 今日も無事に帰ってきてくれたことに、ホッと胸をなでおろしながら。





 ***




 時計の針は18時を示していた。
 執務室。デスクの向こうにはエンタープライズが堂々と立っている。

「以上が、今回の哨戒任務における報告だ。これが報告書になる」

「うん、ご苦労だった」

 エンタープライズから差し出された書類を受け取ると、イツキはデスクで伸びをする。

「さーて……。これで本日の業務は終了か」

「ああ。お疲れさまだ、指揮官。これからのご予定は?」

「とりあえずはお風呂。それから食堂で夕食。つまりはいつも通りかな」

「了解だ。それでは、いつも通り食堂でまた会おう」

 執務室を出ると、イツキはエンタープライズと別れてお風呂場へと向かう。
 大浴場。男女に分かれてこそいるが、男は指揮官ひとりしかいないので事実上の貸し切りになる。
 さすがに男風呂は女風呂よりも狭いらしいが、それでもイツキひとりが使う分には充分すぎるほどの大浴場だ。
 一日の垢をシャワーで洗い流し、大きな湯船に浸かる。
 たっぷり30分ほど満喫すると、用意されていた新しい軍服に着替えて、食堂へと足を運ぶ。

「こっちにゃ指揮官!」

 ぶんぶん手を振る明石に視線をやれば、エンタープライズ、ラフィー、不知火とKAN-SENたちが勢揃いだ。
 いつものように全員でテーブルを囲んで、他愛のない談笑をしながら夕食を取る。

「指揮官、今日の授業ではなにをやったんだ?」

「えーっと、今日は……」

 エンタープライズの質問に答えようとして――、脳裏によぎる教室でのらんちき騒ぎ。
 ラフィーの胸を思い出して、またもカーッと頬に熱が集まるのを感じる。

「どうした指揮官? いきなりうつむいたりして……」

 不思議そうに尋ねてきたエンタープライズに、ラフィーが被せるように説明をする。

「……人間とKAN-SENの肉体的なちがいについて教えた。戦闘で部下にできることとできないことを知っておくことは、指揮官として大事だから」

「なるほど、たしかにその通りだ。やはり戦闘が関わったときだけは冴えてるな、ラフィー」

「だけ、は余計……」

 赤ワインをぐびりと煽るラフィー。どうやら助け舟を出してもらったようだ。
 エンタープライズはイツキの姿に疑問を抱くことなく、ふたたび食事を口に運び始める。

「にゃにゃ、なんだかおいしいイベントを取られたような気がするのはどうしてにゃ?」

「大うつけさま……不潔でございます……」

 一方で小首をかしげる明石に、なにを邪推したのか口元を袖で隠してジト目を向ける不知火。
 おおむね平和に食事を終えると、KAN-SENたちに別れを告げてイツキは部屋へともどる。

「さて、と……」

 備え付けの机に座ると、今日学んだことの復習を始めた。
 ラフィーと明石から、それぞれ数枚に渡るレジュメを渡されているのでそれの総ざらいである。
 それを終えると、『読んでおくように』と渡された教科書を読む。
 ぶっつけ本番のラフィーとちがって、ほかの先生方は事前に教えることを通告しているので予習だ。
 復習と予習を2時間かけて終えた頃には、時計の針は21時30分を示していた。

「ん……、そろそろ消灯の時間か」

 机に広げたレジュメと教科書を片付けると、洗面所で歯を磨く。
 なおイツキに寝巻きはないし、そもそも私服がない。
 泊地にいる限りは常在戦場であり、いざとなればすぐ動けるよう常に軍服を着ていなければならないのだ。
 なのでそのままベッドに入るイツキ。布団のやわらかな感触が眠気を誘い、ぐっすりと夢の住人に――

「――あ、不知火に話を聞きに行くのわすれてた」

 玖堂イツキ。泊地に着任してから2ヶ月目の夜のことであった。






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